公立学校の真実
★★★
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
大阪府教育委員会 教育長 中原徹さん
「公平っていうのはね、教育内容の全員が同じ教科書というのが公平だと、僕は思ってないんですね。
それぞれの今まで歩んできた背景、環境に応じて、その子にとって役に立つことを公平にやっていくことだと思いますんでね。
だから『カリキュラムの中身とか使っている教材だとかが違うから公平じゃない、むしろ合わせることが公平だ』というのは、それは間違った公平感だと思いますけどね。」
2014年3月3日(月)放送 クローズアップ現代より
中原氏のこの公平感に賛同する。しかし、子どもたちの背景や環境に応じた教育を展開するとなると必要になるものがある。教員の増員と実施スペースだ。一律に教育を行うのと生徒に応じて行うのとは教育の質が違う。よりきめ細やかな教育になる。つまり、実行するには予算が必要だ。
それを無視して現場に理想を丸投げするなら、計画は総合学習と同じく現場の厄介者になる。そして教育現場のさらなる悪化へと進むだけだ。
私は大阪の教育には特別支援教育の視点が必要と痛感する。ADHD,LDなどに対応する教育だ。
教室に6時間じっと座らせなければならない、教師にとっても子供たちにとっても苦痛の極みだ。
小学校から中学校に上がってきても、九九の半分も言えない。2けたの足し算も出来ない。もちろん授業など分からないし、受けようという意思さえ見当たらない。なにより多動でじっと出来ない。
だから、教室から飛び出す。教師は他の迷惑になるので注意せざるを得ない。親に連絡をすると一時的に止むが、すぐにもとに戻る。一部の子供は親が学校に来ても同じだ。中学生になると体も大きくなり、教師は制止もできず。打つ手がなくなる。残念だが、最終的に警察にお世話になる。
通常の教育課程を無視したほうがその子のためになる。
なぜなら、ADHDなどの子供たちは自分の好きな事は熱中する。
時間割で例を示せば、
1時間目 数学や国語
2、3、4時間目 技術や家庭科 音楽 体育 美術
昼からは部活動という具合にだ。
欲を言えば1日中部活動でも良いぐらいだ。
これでもダメなら、職場体験活動を6カ月ほどさせたい。
大阪には超個に応じた指導が早急に必要だ。
夢や理想で終わるのではなく、予算を付けた具体的な実現を願う。
下の京都新聞 文化部 逸見祐介さんが書いておられることに同意する。
ただ、総合選抜がよいとか単独選抜が悪いとかの議論はしたくない。どちらも良いところがあるからだ。
学力下位層を支える施策がないことに危機感を持ち、実際に行動に出ることが今まさに必要なことだと感じている。
どこの大学に何名合格させたかが高等学校の評価につながっている。だから、高等学校側も進学指導に力を入れる。特進クラスを作り偏差値の高い大学に合格者をだせるようガンバっているのだ。
しかし、学校教育の評価は、有名校に合格させた数字だけではないはずだ。 目的意識のない生徒をやるきにさせ、人生の目的を持たせて道を開かせていくことも大変大きな評価となるはずだ。
底辺層が集まる高校に手厚い教育施策をすることがに必要だ。また、中学校でも底辺で荒れている生徒への施策を実行することが教育の最優先課題だと認識してほしい。
公立高入試の制度変更 学力下位層支える議論を
文化部 逸見祐介
全国で唯一、京都市・乙訓通学圏に残っていた「総合選抜」の廃止など公立高入試の制度変更を受け、昨秋から受験生や親、学校の動きや思いを教育企画「変わる春 高校入試」で伝えてきた。住所で合格校を振り分ける総合選抜から、受験生が受ける高校を選べる「単独選抜」に変更され、各校とも生徒の獲得に躍起になっている。しかし、学力下位層の生徒たちには、ほとんど目が向けられていないように感じる。公教育の在り方として議論が不十分だ。
6月29日に京都市左京区のみやこめっせで京都市・乙訓通学圏の公立高の説明会があった。受験生や親は担当者の話を熱心に聞いていた。嵯峨中3年の女子生徒(14)は「今の学力では難しいが、気になる学校がある。頑張って勉強したい」と前向きで、目標を持つことで学習意欲が高まることが伝わってきた。
京都府教育委員会が入試後に行ったアンケートで、同通学圏の入学者と保護者の8割余りが新制度を支持した。勉強が得意なら高校を幅広く選べるだろう。
しかし、学力下位層の生徒はどうなのか。入試後半となる中期選抜では全通学圏で不合格の公立中生徒は1258人に上った。8割が府内の私立高に進み、私立高が学力下位層の受け皿になっている一端が浮かぶ。なのに府教委のアンケートは私立高側と調整がつかずに公立高入学者だけが対象だ。私立高に進んだ生徒の新制度の評価は分からない。
府南部の山城通学圏は10年前に単独選抜になり、ある公立中教諭は「学校間格差が拡大し、固定化した」と指摘する。進路指導は学力レベルに応じ、学力下位層の生徒は、学校を「選ばされる」可能性があるという。
府、京都市両教委とも、大学と連携した専門的授業や国際的な人材育成など進学校といわれる高校の施策を重視する印象がある。難関大を目指す普通科系専門学科は入試前半の前期選抜で全ての定員を取る。「優秀な生徒を囲い込んでいる」。高校関係者から批判を聞いた。
こうした公立高の動きに学力下位層を受け入れてきた私立高が進学路線へ転換する動きが出てきた。ある私立高は数年前から「受け皿の発想では公立高の合格者に左右される」と、大学進学率アップを目指すようになった。公立でも新制度を機に「これまでの受験層より高いレベルの生徒を求める」と言い切る高校がある。ますます学力下位層の行き場が減る状況だ。
学力レベルの低さは本人の努力不足に限らず、経済的要因などやむを得ない事情も関係する。「有名大学への進学だけでなく、いろいろな自己実現がある」。ある公立高校長の言葉が心に残っている。なぜ、低学力層を下支えする教育を特色として打ち出す公立高が出てこないのか。議論の深まりを期待したい。
[京都新聞 2014年8月13日掲載]
不登校生徒6年ぶりに増加に転じる
文部科学省が7日発表した学校基本調査で、平成25年度に学校を長期欠席した「不登校」の小中学生が計11万9617人に上り、前年度より約7千人増え、6年ぶりに増加に転じたことが明らかになった。
とくに中学では不登校の比率が2・7%となり、37人に1人が不登校という状況に。文科省では「学校現場でのきめ細かい対応が必要」としている。
調査によると、病気や経済的な理由以外で25年度に学校を年間30日以上欠席した小学生は前年度比2932人増の2万4175人、中学生は中高一貫校(中等教育学校)の前期課程を含め3996人増の9万5442人だった。
過去10年の小中学生の不登校者数は、19年度の12万9255人をピークに、20年度以降は5年連続で減少していた。今回、計約7千人も増加した理由について文科省は見解を示していないが、同時に実施した問題行動調査で詳しく分析しており、その結果を9月に公表する方針。
このほか全体の児童生徒に占める不登校の比率は小学生が0・4%、中学生が2・7%で、いずれも前年度より増加した。
都道府県別で不登校が多かったのは、小学生が(1)東京2407人(2)神奈川2198人(3)愛知1919人-など。中学生が(1)東京8181人(2)大阪8008人(3)神奈川7151人-など。
文科省はこれまで、学校にスクールカウンセラーを配置するなどの取り組みを進めているが、今回の結果を受け、不登校対策の強化を迫られそうだ。 産経8月7日
なぜ6年ぶりに不登校生徒が増えたのか。新聞記事を見た瞬間、「当然やろ」と心の中ではき捨てるようにつぶやいた。
今は夏休みだが、もうすぐ終わる。しかも、8月25日から2学期が始まり、翌日から6時間授業を敢行する学校も多くなった。
一定の我慢する力を持ち目的意識が高い学校の生徒たちならばそれでいける。しかし、複雑な生活環境を持つ生徒たちや、勉強することの価値を見出すことが難しい生徒たちがいる公立中学校は生徒も教師も拷問のような2学期の幕開けとなる。
教室に冷房が入っていれば授業を強引に進めてもよいのかと疑問だ。もっと生徒の精神的、肉体的な健康を考えて授業を進める必要がある。せめて8月中は4時間短縮授業にして徐々に本格的な学校生活に入っていくべきだ。
一事が万事で、最近は、学力向上の名のもとにまるで食用鶏(ブロイラー)のごとく無理やり学を詰め込んでいるように感じる。このような学校に、現在のもやしのような心の生徒たちは対応しきれていない。不登校生徒や不登校予備軍が多くなってもおかしくはない。
学校現場は、良いことだからと多くの取り組みをまる投げされる。どんどんと教師は忙しくなり疲弊していく。教師が疲弊している学校にいきいきとした生徒たちがいるわけがない。
まず、我々はこれを知恵を絞って乗り切らなくてはならない。一人ではできない。職員みんなで乗り切り元気な学校を作りたい。かわいい生徒たちがいるのだから。
しかし、夏休みも8月終わりまでという昔のような長さはなくなり、8月25日頃から2学期が始まる。しかも、始業式の翌日から6時間授業が待っている。生徒の体調や心の健康も考えて、せめて初めは4時間授業にすべきだろう。
最近、あの狭い教室でひしめき合って勉強している生徒たちを見ていると、かわいそうに思えてくる。ブロイラーのように思えるからだ。ブロイラーは狭いところで経営効率だけを考えて育てられる食肉用の鶏だ。狭いところで飼育されているので様々な病気になる。だから抗生物質を投与し続けなければならない。
子供たちもそれに似てきた。病気になっている。
あの狭い教室で40人。とにかく余裕はなく。詰め込むように学力を上げることを目標として育てられている。悲しいかなそれをしているのは私だ。
何箇所か現場の教師が変更するとすれば…。
下記では転校をする時引っ越ししなければならないと書かれているが、今はしなくて良い、理由あれば住居を変えずに転校出来るのだ。また、定期テストを受けずに高校進学を果たした生徒もいる。公立高校も不登校で進学した生徒はいる。府県によっては公立に不登校枠があることもある。
片っぱしから人に相談すればほぼ解決すると書かれているが、今はそう簡単に人間関係が解決するとは思えない状況がある。
以上だが、この記事をけなしているつもりは全くない。不登校についての対策は刻々と変化しているし、地域によっても違うからだ。
重要なのは、真摯な内容で具体的な対策が書かれていることだ。
一現場の教師が思うに、義務教育で不登校になれば、ほとんどが家にいるしかないというお粗末な対応しかできていないことが悔しい。
はじめまして、ノート作成者です。
ほとんどの人は不登校を大きく勘違いしている
学校に行けない理由を考えよう!
不登校だけど、どうやって勉強すればいいの?
どうしても定期テストは受けないとダメですか?
中学校行けない子が、高校に行けるの?
高校選びのコツを教えてください!
現在、小学4年から中学3年までの114人が通う。一人一人の歩みに合わせて教員らが寄り添いながら、出席率を向上させ、進学への意欲も引き出している。
「何回も壊れ、作るのに苦労したんですよ」。校舎1階の陶芸教室で、銀の粉が混ざった粘土をこね、クモや指輪を形作る児童たちの表情は、真剣そのものだ。校庭を見渡せば、教員と楽しく野球をする姿も。
子どもたちが取り組んでいるのは、毎週火曜と木曜の「講座学習」。料理や手芸、バドミントン、バスケットボールなど文化系から体育系まで、年間で約20の講座から選択して受講できる。黒沢正明校長は、「学校に行くのは楽しいことなんだ、と感じてもらえるようにしている」と話す。
同校は2004年、国の構造改革特区を活用し、誕生した。「自分を伸ばせる人になろう」「自信をもてる人になろう」といった目標を掲げ、年4回、転入生を受け入れている。
子どもに無理強いはしない。授業中、集中力が続かなかったり、体調不良を感じたりした場合は、読書やボードゲームができるプレイルームや保健室などで過ごす。
スクールカウンセラーも毎日、市や都から訪れ、子どもたちは日々の出来事や悩み、不安に感じることをこまめに話す。コミュニケーション力を養い、友人が出来るよう、ハロウィーンパーティーや餅つきなどの年中行事も多い。こうした指導の結果、開校時は5割前後だった出席率は、昨年度、目標の7割を超え、現在も維持している。
「学校に通える」と自信を付けた生徒が、次に目を向けるのは進学だ。中学2、3年は少人数指導を徹底し、学習到達度に応じてコース分け。1コース約15人の生徒に教員らが3~4人付き、補習の時間もある。生徒の9割以上が、全日制や定時制などの高校や専門学校へ進学。大学や大学院に進学する卒業生もいる。
民間出身で昨春、就任した黒沢校長は、「今後も、コミュニケーションの場を多く設け、社会性を培うような環境を提供したい。本校での時間を自信に変え、一つ一つハードルを越えて社会に羽ばたいてほしい」と話している。
中学校に行けない、行かない子たちの居場所作りだ。
それが不足して苦しんでいる生徒、保護者が多いことを知ってほしい。
塾は夜だが、その居場所では朝から昼間にかけて活動する。
内容は音楽、芸術、映画、勉強やスポーツ等を通して心を癒し、体力保持をねらう。カウンセリングも行いたい。
なにより不登校生徒が自宅でしか活動できないことが不愉快でならない。
不登校がおかしいのではない。頂上に登るための道が一つしかないことがおかしいのだ。
学校に行かなくとも道はあり、立派に育っている人もいる。
例えば有名なのがエジソンだ。
一説にはエジソンはLD(学習障害)ADHD(注意欠陥多動性障害)などを患っていたといわれています。
「1+1=2」を教師が粘土を例にとって教えていたら、エジソンが「1個の粘土と1個の粘土を合わせても(混ざって)1個の粘土になるだけなのになぜ2個になるのか」と聞いて、教師がエジソンを「腐れ脳ミソ」と罵倒したというエピソードが存在しています。
また、エジソンの知りたがりは学校内だけでなく、家でも発揮されています。「なぜ物は燃えるのか」を知りたくて、藁を燃やしていたら納屋に延焼してしまったのです。
これらの事例が積み重なったことで、エジソンは学校からも父サミュエルからも見放され、入学からわずか三ヶ月で放校処分を受けてしまったのです。
不登校生徒に道をつける事が必要だ。地方公共団体では有名大学に進学実績を伸ばすことに必死に力や予算を傾けているが、落ちこぼれている生徒には予算を掛けない。
私は落ちこぼれていく生徒(やんちゃな生徒も含む)の救済に力を入れることにより学校が正常化し、学校全体が大きく引き上げられていくと確信する。まず教師が本来業務に専念出来てやる気が出てくるからだ。
今、教師は落ちこぼれていく極一部の生徒の指導に9割の力を取られている。それが逆転すればみるみる学校は健全化され力を発揮する。このことがなぜ知事や市長は見えないのか。
場所は当方で探し、中古ビルの一角でも買おうかと思う。だれか助けてくれる人はいないものか。
分室や分校も合わせると30校はある。私の中学校でも進路相談の季節が始まっているが、すでにこの時期で通信制を希望している生徒が複数出た。
一昔、通信制高校は全日制高校を受験して不合格になった生徒の最後の砦として定時制などと同じく残された道だった。それが今は高校入試の全面に出てきた。生徒のニーズに合った教育内容を充実し、さらにその需要も多いということだ。
通信制高校は、中学校時代に不登校だったり高校を中退した生徒たちを積極的に受け入れている。また、登校日数が少ないので時間があり自分の好きな分野を徹底的に伸ばすために入学している生徒も少なくはない。
このように高等学校の教育では、不登校や学力不足、進路変更を考えて悩んでいる生徒のために充実した教育システムが私学を中心として構築されきた。
そしてそれらが実績をあげている。例えば、クラーク記念高校では国公立、早稲田、慶応を始め有名大学に毎年一定数を合格させている。その他の通信制高校も東大、京大などに進学させているところもあり、全日制の中堅校にいくより学力が伸びるのではと思わせるような面がある。
スポーツ面でも全国大会に出場する選手がいたり、全日制高校より豊富な練習量と専門的なコーチ陣で実績をあげているところもある。
通信制といえば卒業率の低さが不安要素だったが、最近どのような手を使っているのか、卒業率が90%台のところが多い。中学校でほとんど登校できなかった生徒が通信制高校に行き、生き生きと勉強し卒業している。
だから、生徒や保護者、教師の中には無理して全日制高校に行かなくとも通信制高校があるという安心と期待が定着しつつある。
一方、中学校はというと…、月曜から金曜まできちんと通わせることが絶対で、最近は土曜授業まである。
しかし、中学校に適応しなくなった生徒へのケア、サポートはあまりにも未熟だ。
適応できなくなったら、担任を中心に学年教師、カウンセラーが適応できるように頑張る方策だけしかない。
中学校で不適応になり卒業まで家にいる生徒は、卑屈な思いで家にじっとしているしかない。これでは不登校生徒の時間がもったいない。居場所的なサポートはあるが、利用している生徒は少ない。
中学校の不登校生徒たちには、ニーズに合った安心して学習できる環境が早急に必要だ。あの子らにも教育を受ける権利がある。
すでに高校は適応できない生徒へのケア、サポート体制を私学を中心に充実させている。実績もあげている。中学校は、今のシステムを強化していくだけの発想しか見えない。
もうそろそろ義務教育への既成概念を取り払い、新たなシステムを展開していく時が来た。
ふっと教室をのぞくと6人が机に伏せて寝ている。4人が教科書も出さずになにもしていない。
教室は静かだ。教師のチョークの音だけが響いている。
…まだましか騒いで邪魔するより、と自分に言い聞かせるて通り過ぎる。
むなしい。
学校て何だろう。これでよいのか。
違いがあって当然というけれど、その言葉は言い訳に聞こえる。様々な生徒がいて当然。しかし、その様々を支えるのは教師一人。これでよいのか。もっと手厚い配慮がないと今の教育はできない。
昔、私立中学校を退学になった生徒が公立に戻ってきたことがあった。学年には退学になった生徒よりもっとひどい生徒がわんさかいた。思った。こいつが退学になるなら、公立ではクラスの5分の1は確実に退学になる。すごい学校だ。
学校に適応できない生徒がいてもすべて中学校が背負い、その中学校がすべて責任を持つ。 日本ではそれ以外の発想はどこにもない。
この路線の発想を転換する時が来たのではないか。
すでに高等学校では生徒の実態に合わせて、学びの多様性がある意味充実している。
中学校時に不登校であったり、高校中退者などは通信制を初めとして通信制連携校、サポート校など充実した進路が用意されている。
しかも、月に1,2回だけ登校するスタイルや週2、3回また毎日登校など生徒に合わせた学習スタイルで高卒資格を目指す事が出来る。定時制も昼間定時制などをつくり、生徒の実態に合わせて学びやすいようにしている。
なぜこれが中学校で出来ないのか。
義務教育だからか。しかし、現在の困難な課題を抱えた義務教育だからこそ柔軟な学習スタイルの構築を急ぐべきだ。
市民に対して学校選択制のサービスを模索するのも良いが、硬直した中学校の学習スタイルをいち早く壊し、柔軟な学習スタイルを早急に構築していくことの方が最優先課題だ。
しかし、それには法律を変えなければならない。
例えば中学校に通信制は許されるのか。一部許されている。しかし、下のような今の中学生に全く適応したものではない。
中学校通信教育規程
(昭和二十二年十月二十九日文部省令第二十五号)
中学校通信教育規程を左の通り定める。
1958年4月、水戸地方法務局は、茨城県立上郷高等学校での丸刈り校則改正運動で退学者が出た事件について「長髪禁止は人権侵害のおそれがある」と、県教育庁に勧告した。
1989年、「丸刈り校則たった一人の反乱」刊行。愛知県岡崎市で、丸刈り校則を拒否し、一人で長髪通学を続ける中学生と両親の闘いの記録が単行本となる。岡崎市では、1990年前半には、丸刈り校則全廃を達成。
1997年2月22日、最高裁判所は小野市在住の小学生および代理人の「小野市立小野中学校の丸刈り校則無効確認」の訴えを棄却した高裁判決を支持して、上告棄却とした。ただし高裁判決理由で「丸刈り校則は単なる心得であって守る法的義務はない」と確認されている。(小野中学校丸刈り校則事件)
このように、校則は最終的に保護者への協力依頼程度である。もちろん法的根拠はない。
どうやって保護者に理解していただくか、ここに教師のコミュニケーション力が問われる。だが、それは易しいものではない。なぜなら今は多様な考えを持つ保護者が多数いるからだ。
教師に学校の校則を100パーセント守らせることを強要する時代は終わった。守らせるなら、校則を法に準じるものに変える必要がある。
それが不可能ならば、学校は一つの決断をすべきだ。
「校則撤廃」だ。
時代は変革している。我々が中学生の時、携帯電話もない、髪の毛を染めるのはおばさん連中だけ、ピアスなんて考えたこともない…。現在これらを阻止し続けるだけでも昔の教師よりも莫大なエネルギィーが今の教師にかかっている。本来業務の柱である授業研究にかける時間は割かれ続けられている。
神経をすり減らし、本来業務まで捨てて、校則を守らせることがよいのか疑問だ。
いらない校則は即撤廃していく決断が必要だ。例えば、靴下はどのような靴下でもよい。いちいち白のワンポイントまではよいとか、黒、紺だけ可、とか決めない。それを指導するのに何時間もかけ、保護者に電話してお願いし、学校で履き替えさせる。この間に、授業研究がいくらできるだろう。
指導しながら、靴下の色なんてどうでもよいことのように思えてくる。どうでもよいことのためにエネルギィーを注ぐ空しさを体験しているのは私だけではないだろう。
我々の世界、校則をしっかり守らせる教師は力のある教師、という暗黙のなにかがある。だから、力のある教師として認められるために頑張るという構図がある。
だから、どうしたら校則を守らせられるかという議論はあっても、なんのために校則を守らせ、どうして校則は必要なのかという議論は起こりにくい。我々に「変革」という風土がないのだ。捨てるべきもの捨てられるべきものは捨てていく。すべて抱え込んでいる今の学校に必要不可欠の決断だ。
あとの10パーセントの生徒に校則を守らせることができるとすれば、教師側にかなり高いコミュニケーション能力が必要となる。それは現地点では不可能だ。
だから、校則を100パーセント守らせるのなら、法的根拠を持った権力に準じるものが必要だ。
ただ、100パーセントに近い形で校則を守らせている学校はある。それは教師の力もあるが、その地域がしっかりしているからだ。
まず、校則を守らせようとすると、保護者の理解だ必要だが、それが1番難しい。
「○○いくらい自由やろう」
「この髪の毛の赤いのは生まれつきや」
「変形ズボンは私がプレゼントで買ったんや、文句あんのか」
「ピアスの穴は私があけてん」
「校則守らせるなんて人権侵害や」など、ありとあらゆる様々な御意見をクリアーして初めて100パーセントになる。不可能に近い。
だがもっと嫌なのは、数人が守らないことにより、その何倍もの生徒が守らなくなることだ。生徒からは「あの子がやっててなんで私ばっかり言われなあかんの?」保護者からは「うちの子だけじゃないでしょう」、という主体性のない言葉を浴びせられる。
こうならないうちに何とか解決できれば、学校に平和が訪れる。
権力に準じるものがあれば、さまざまなことが解決される。授業妨害もそうだ。公立中学校では一部の生徒がやりたい放題な場所になることがある。だから大きないじめも発生しやすい土壌が生まれる。
多くのまじめな普通にやっている生徒たちの学習権を守ることが今まで弱かった。
公立中学校を普通に戻すには、法的根拠をもった権力に準じるものを与えることが必要だ。
どんな格好で来るのか。先日、茶髪指導はしに行ったが、なかなか指導しにくい。さらに親は非協力的だ。服装もきちんとしてくるだろうか。それにましてこちら教員側の指導体制が弱い。組織力がない。意思統一出来ていない。服装違反や頭髪違反んで来た生徒はだれがどうし対応するのか一応決まってはいるが…。
出たとこ勝負ではこの先の行き着くところは決まっている。
今日は土曜日だ。天気は大荒れという。
だが、休んではいられない。
なぜなら月曜が始業式。それに向けて全力を尽くす。生徒の家に行き、話をする。
次の学年で頑張るために、初めから違反してくるなよと。意思の確認、頭髪の確認。
必ずこの子らみんなキチンと卒業さす。
日曜も学校で続きだ。
始業式のために。
頼む、もし神様がいるなら力をかしてください。
最近思うのは、明らかに発達障害の生徒がクラスで3人ほどはいるということです。実際に発達障害と診断された生徒たちもいますが、診断されないケースもあります。発達障害といっても様々なケースがあります。いじめの対象になってしまったり、多動で何度注意してもじっとしていられない、または非行に走る場合もあります。
三重県名張市の市立中学校で昨年12月、男性教諭が女子生徒の頭をたたいていたことが14日、同市教育委員会への取材で分かった。女子生徒にけがはなく、市教委は男性教諭を口頭による厳重注意とした。
市教委によると、女子生徒が授業中に携帯電話を触っていたため、授業をしていた別の教諭が注意。女子生徒が言うことを聞かなかったため、授業終了後、男性教諭が呼び出して注意している際に女子生徒の頭を平手で1回たたいた。
男性教諭は「素直に非を認めなかったので手をあげた」と話している。男性教諭は直後に女子生徒と保護者に謝罪したが、女子生徒は数日間欠席したという。
市教委は2月上旬に学校からの報告で把握。男性教諭による体罰は他には確認していないとしている。和南義一学校教育室長は「体罰は許されない。教員の指導を徹底し、再発防止に努めたい」としている。
この程度のことなら覚えのある教師も多いはず。私の学校では、過去にさかのぼれば体罰で自分も含めて3分の1ほどの教師が処分を受けるだろう。
教師の体罰を取り上げるのもよいが、踏み込んで教育の根幹を議論してほしい。
荒れた公立中学校では、生徒は自由気ままだ。したい放題している。それに対して我々は何の策もない。
例えば、携帯電話を教室でかけるし音楽を聴く。服装はとても制服とはいえない私服同様で来る。授業中でも出入り自由、授業していてもカップラーメンを食する。強く指導すると暴言暴力に至る。
学校とは何なのか疑問だ。
毎日授業に入らず好き放題して過ごしている生徒たち、それに対してなんら解決策を見つけられない教師や行政。この子らに義務教育の枠を外してやったほうがよいのではないかと常に思う。そうでないと結局行き着くところは、暴力や迷惑行為で、鑑別所などの外部機関にお世話になる。それによって初めて本人たちは自分自身を見つめ始めることになるが、遅すぎやしないか。
原因は学校に多大な要求を押しつけて、すべてを任せているからではないのか。学校は何をするところなのかはっきりさせたい。子守なのか、学習指導なのか、家庭教育でできていない道徳教育なのか、生活指導なのか。はっきりとさせたい。
教師がすべて引き受けて行うのは無理だ。
文部科学省は、公立学校で土曜日も授業を行う「学校週6日制」導入の検討を始めた。
ゆとり教育の見直しで授業時間数を増やした新学習指導要領が小中学校で実施されているが、さらに土曜日も使って授業時間を確保し、学力向上をめざす考えだ。
下村博文文科相は「世論の理解はある」として省内で課題を整理し、スケジュールを詰めるという。
導入は既定路線と言いたいのだろうが、現行の週5日制は企業などの週休2日制とも連動して社会に定着している。説明もなく、官僚だけで事を進めるのはあまりに乱暴すぎないか。
週5日制は1980年代後半のゆとり教育の考え方を背景に2002年4月に完全実施された。詰め込み教育への反省もあったはずなのに、次第に学力低下との関係が指摘されるようになる。
象徴的なのは経済協力開発機構(OECD)のテスト結果で、06年に読解力、数学、理科の3科目とも国別の順位を下げると、「ゆとり教育の弊害の現れ」と騒がれたのは記憶に新しい。
安倍晋三首相が週6日制にこだわるのは、前回の安倍内閣時に設置した「教育再生会議」が週5日制の見直しを提言したからか。
提言は退陣後に新学習指導要領に反映されたが、「道半ば」と考えたとしても不思議ではない。
だが、下村文科相が言うように世論の理解はあるのか。
週5日制には土曜に授業ができる例外規定がある。昨年度から指定校を設け、月1回から学期に1回の頻度で土曜授業を導入している京都府教委の調査では、小中学の7割を超える保護者が実施に肯定的だった。だが、実施回数が限られた土曜授業についての話だ。
児童・生徒は、6割超が「疲れる」などを理由に否定的だった。これでは、もう一つの狙いでもある平日の授業時間数の増加による負担を軽減することにならない。
何より、授業時間数を増やしても学力がアップする保証はどこにもない。学習意欲の低下こそ深刻な問題との指摘もある。
きちんとした検証や総括もないまま路線を転じる「猫の目の教育行政」を繰り返すつもりなのか。
導入から10年を超え、週5日制が子どもたちにも地域にも定着するなか、なぜ週6日制に戻さなくてはならないのか、必然性に疑問符をつけざるを得ない。
安倍内閣は学制改革など大上段の制度改革を掲げるが、子どもたちの学習意欲をどう高め、固定化が進む教育格差にどう対処するのか。足元の課題を見つめることから始めてもらいたい。
[京都新聞 2013年01月17日掲載]
この社説は気に入った。子供たちの学習意欲減退が最大の課題だ。実態を知ってほしい。教員は解決策のない日々の中で疲れている。1日1日をなんとか過ごすのに精一杯だ。
今日、授業をしながらノートをとらない生徒が何人いるか調べていた。誤解のないようにしたいのだが、指導している。しかし、ノートをとらないまたはとれない生徒だ。6人はいる。多いときで10人だ。ずーっとノートをとらずに座っている。
生徒たちは弱っている。教師たちはゆとりがない。
学校てなんだろう。大半の生徒は授業に参加しているが、数人は参加できていない。理由は学力や集中力、気力に問題があるのだろう。
私の生徒時代を思い出してみた。中学校の時はがむしゃらに勉強した。競い合い、友人に平均点で勝つことが嬉しかった。学校に行くことに全く疑問はなかった。
高校は学習内容もかなり難しくなり、気力も萎えた。ついていけない、授業が面白くない。大学はその上を行った。一体何のための勉強なのか、生まれた時から学校があり、適齢になれば行かなくてはならない。高校の頃から疑問だらけになった。
今は教師も生徒も急かされている。夏休みは少なくなり、8月終から授業が始まる。始業式などのときも式後に授業をするようになってきた。授業数確保のためだ。
だが、その前にすることがあるような気がする。
授業中クラスを見渡すと、ついていけない生徒が何人いるか。内容は分からずにただノートだけをとっている生徒、内容も分からないしノートもとらない生徒、寝ている生徒。だから習熟度別の授業がある。 だが、これもうまくいかない。
九九がはっきり言えない生徒がいた。九九ぐらい一ヶ月やれば覚えられる。いったい小学校6年間、中学校数年間教師は何をしてきたのか。
中学校てなんだろう。
クラブ活動があって、授業がある。行事がある。規則があり、生徒指導がある。しかし、はみ出す生徒、落ちこぼしていく生徒たちがいる。また保護者の考えも多様になってきた。学校だけで教育を完結するのに無理が出てきた。学校を支援するコミュニティーが必要だ。
私はきっとそれをやる。
なぜ、こんなことで指導しなければならないのか。指導すべきは生徒ではなく保護者だ。
保護者には中学校入学のときに服装や頭髪についてはきちんと説明している。だが、それを守らせることができない親、あるいは変形ズボンでさえも買い与え、それを指摘すると逆切れする親。私学だったら退学だ。公立中学校は残念だがそういう厳しい処置はない。
なんの切り札ももたないまま世間から、あの中学校の先生はダメだと印され、もっときちんと指導しろと言われる。そう言われ続けた教師も転勤し、すばらしい住環境の学校にいくと、あの学校は良い、先生も頑張っていると言われる。
「やってられない」と腹がたつが、この職業なぜか面白い、辞められないのだ。
だが、学校ばかり責任を負わせるのはおかしい、親の指導はだれがおこなうのか。必要ではないだろうか。
毎日の授業の中で、寝ている者やノートもとらずにボーっとお客様をせざるを得ない者を前にしていると虚しさが残る。ましてや授業が分からない嫌だからと校内を徘徊している彼らを見ていると無力感を感じる。
この子たちにとって学校は益となっているのだろうか、やりたい放題わがままを助長するだけの施設になっているようで仕方がない。そうさせているのは私たちだと感じて情けなくなる。
先日、定期テストの結果を眺めて見て、改めて低得点の生徒は生徒指導上問題が多いことに気がついた。これは生徒指導上問題があるから授業に定着できないので低得点なのか、低得点だから、授業が面白くなく指導されることに走るのか、どちらなのか。どちらも事実としてある気がする。
ただ、低得点者に対する日本の施策は弱すぎるし現状を把握していない。
低得点層の生徒は、アルファベットが書けない読めない、例えばdとbの違いが分からないなどがある。また、九九が出来ない、引き算は指で行うなど、到底通常の授業にはついてゆけないのが現状だ。
彼らの毎日の授業はどうしているかだが、ノートは取ったり取らなかったりだ。ほとんど毎日寝ている生徒もいる。そして最悪は授業の邪魔をする。
そういう問題を解決するのに習熟度別授業や少人数授業がある。といっても本当に効果があるのか疑問だ。実際、習熟度や少人数授業で失敗している学校が多いのも事実だ。
家庭環境が良い層が集まる学校はどのような策も出来る。そうでない学校は理論上素晴らしいと思える策もやってみれば逆に荒れにつながってキズ後を残している。そういうところは一番無難なT・Tを実施している。
また、40人いればLD,ADHDなどを疑う生徒が2,3人はいる。このことも学校教育の困難性を増加させている。
教師がやる気をだせばなんでも解決できるという妄想は横に置きたい。新たな考え方で新たなシステムが必要だ。
それは底辺層を援助する仕組みだ。私はそれをやりたい。
「先生、もうやめてください。」と心の中で虚しくつぶやいていた。全く分からない数Ⅲ。ついていけないのだ、きっと先生もほとんどの生徒が分からないと分かっていたはずの授業。もっとこっちを、僕たちの方をみて授業をしてください、目をそらさないで黒板と話さないでください。高校時代、自分の不勉強を横においてこう思っていたのを思い出す。
大学時代は卒業のために頑張って座っていた。ならいいのだが、面白くない授業、無意味と感じる授業は座っていられない、抜けた。
今、私は中学校教師。担任しているクラスのN子は授業をよく抜ける。勉強も出来ない。正直責める思いは出てこない。それより申し訳ないという思いが出る。
私の学校には、中学1年生の4月の段階ですでにノートをとらない生徒がクラスに数人いる。2年生になったらきっと分からないから授業を邪魔するか、他の事に興味を持ちだし、授業を抜けて校内や校外をうろうろとしだすだろう。先の様子が目に浮かぶ。
先日、授業を抜けだすB子を教えた時、九九を覚えていなかった。「えっ」と思ったが、顔に出さず教えた。教育の何がダメなのか。我々に何が出来るのか。いつも思い、虚しさが心を覆う。
でも、ささやかでも頑張っている教師たちがいる。連休明けたら笑顔でまた子供たちと仲間と出会おう。それしかできない。