公立学校の真実
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テスト当日にノートを提出させるのが通例だが、テストの採点とともに時間がかかる作業でもある。ノートの中身を丁寧に点検していくと相当時間がかかる。
時間がかかるだけでなく、ノート点検そのものに疑問を持っているから滅入るのだ。
ノートの中身をマーカーやペンできれいに彩り丁寧にまとめているなら、一応良いノートとされるが、私はあまり思わない。
教科の性質もあるのかもしれないが、美術科でもないのできれいさを競うものではないからだ。人に見せるものでもない。
ノートは自分の理解を助けるものであればよい。
なので、いちいち他人が外から見て評価する対象にはならないものだ。
これが本音なので、生徒のノートを点検してABCと評価するときの気分はつらい。
同僚にこのことを愚痴ると、同感してくれる人も多い。
しかし、「このノート点検で救われる生徒もいるんですよ。テストの点が悪くてもこれを頑張って最低の評定にならないようにしている生徒もいるんです」と伝えてくれた同僚もいた。
確かに。ノート点検があるから生徒は静かにノートをとり、教師は静かに授業を進めることができる一面はある。
我々の中学や高校時代、先生がノートを点検することは全くなかった。通知表が観点別評価になったのをきっかけに、意欲関心の観点をノート提出などに求めていった。
ノートだけではない。学校で使う問題集を提出させて評価する教科も多々ある。しかし、答えを丸写ししてくる生徒も後を絶たない。
それも含めてなんとか評価にしているのが今の現状だ。
答えを丸写ししてくる生徒、それは学力がその問題集に合ってないからだ。
だったらその学力に見合う問題集を与えればよいのだが、平等主義が邪魔をする。つまり、同じ教材でないと平等な地点に立って評価ができないのだ。
夏休み冬休みなどの宿題もどこかの出版社の作った問題集を一律に与えたりするが、学力差に合った問題集を選ばせることが必要だと痛感しながら購入させ、提出させている。
ノートをきれいにとることに力を入れるあまり、教師の話をうまく聞けていない生徒がいることは事実だ。本末転倒といえる。もっと自在に学習ができるよう我々教師側の自在な発想・工夫が必要な時が来ている。
中学校教員の多忙化を分析し議論するより、中学校という枠組みを変えることが最優先だろう!
今、わが校のわが学年では、不登校生徒がクラスに平均2人いる。
その中で、市の適応教室に通っている生徒が3人、家から出てこない生徒が2人、別室登校する生徒が4人。そのほかは時々来るが家にいるほうが圧倒的に多い生徒たちだ。
別室登校に対して、教員の加配は全くない。しかし、必ず、学年の教師が彼らの面倒を見るために別室に行く。養護教諭も手伝ってくれる時はあるが、基本的に学年の教師が就く。こうなると、学年の学級数が一つ増えたと同じことになるだ。
しかも、わが校は、やんちゃが多いので、教室に入らない彼らを誰かが面倒を見なければならない。
学年の教師は、授業をしているか、別室にいるか、教室に入らないやんちゃを追いかけているかだ。空き時間はなくなる。
場合によっては、朝早くから部活指導し、夕方部活指導して彼らが下校するまで、まったく休みなし、椅子にも座れない状態が続くときがある。
昼の休みがあるじゃないかというが、給食時間こそ戦いであり、昼休みこそ問題行動が起きやすい時間帯、だから私は廊下にいるのだ。
やはり、中学校教師はブラックとしか言いようがない。だが、夏休みは勤務はあるが楽だといえよう。
この中学校ブラック化の最大の解決策は、
「生徒は学校に行くべき」
「親は学校に行かせるべき」
という考え方を払拭し超えることにある。
不登校になると、親や本人は学校にいけないことを「罪」と思い。申し訳ないやら情けないやらの思いに駆られる。「すみません」と担任に謝っている親を見ることもある。生徒も恥だと感じている。
だが、本当は多様な生徒を受け入れられない一本調子のお粗末なシステムしか持ちえない学校が最大の原因なのを皆知らない。
例えば、通信制の中学校を作るのはどうだろう。通信制の高校があって、大学があって大学院もあるのだから中学校にも通信制があってもよいではないか。このような発想はないのか。
これだけ社会が流動化し困難化しているのに、先を見た柔軟な考えは未だ文科省から生まれてこない。
流動化多様化した世の中、いつまでも固定化したシステムを固守して、しかもそれがさび付いて、苦しんでいる人たちがたくさん出てきているのに、なぜ変えようとしないのか。
いじめで、学校に行けなくなり死を選ぼうとする生徒もいる。
朝、家の門から出ていくとき、生徒たちは学校に行かなくてはならない、学校にしか生活する場がないと思うからだ。
「学校がすべて」という誤った信仰に侵された悲しさがある。
中学校にも多様なシステムがあれば救われる生徒も必ず出てくる。
やんちゃも学校に行って校内をうろついて他人に迷惑をかけるだけかけて3年間終えるならば、既定の中学校より魅力的な中等専修学校をつくるべきだ。
高等専修学校があるのは魅力的だが、中等専修学校は、日本全国統一された一つしかないカリキュラムを押し付けられる中学校より、やんちゃさんにとっては個性を伸ばせるもっとも魅力的な存在になるだろう。
そうはいっても歴史的に文科省や公的機関がすぐ動くはずがない。基本的に頭が固すぎるのと、前例のないことはしない主義だからだ。
だから、なんでも民間がやってから、知らぬ間にすっとやりだすのが通例だ。
例えば、高等学校の特別進学コースとか少し偏差値の高い生徒が集まるクラスがあるが、これも私学が作って大きな成果を収めて、それを確認してから公立が作り始めた。
また、中高一貫なども、私学が大きな成果を収めているのを指をくわえてみているだけではたまらなくなったから公立が全国で作り始めたのだ。
つまり、先に社会の問題を解決すべく先鋭的システムを作り上げるのはいつも民間だということだ。残念ながら、その後に公的機関がゆっくりとついてくる。
私は、この中学校のシステムの多様化の流れを作りたい。流れを作ればきっと後に続く大きな流れができるはずだ。
これも本当に毎日苦労して身を削り活躍しておられる先生方を思い、頑張りたいと思うのだ。
しかし、やはりわが校でも、不登校生徒、授業を抜け出す生徒の対応に追われ、その時間がその生徒たちの対応にあてられる。
不登校の生徒を別室で教師もつかず自習をさせておいて何かあれば大変な問題となる。最近、自傷行為や精神疾患を抱える生徒が多いので一人にさせておくことはできない。
また、教室に入らないやんちゃな生徒を放っておくと、他の授業の邪魔をしたり、校外にいったり、たばこを吸ったり、器物破壊をするので教師がついていないといけない。
ここで教師は貴重な空き時間が無くなる。放課後があるじゃないかとなるが、部活指導や委員会指導、会議に追われる。
それが終われば…6時が過ぎる。そこで初めて自分の仕事ができるのだが、今日、問題があった生徒や不登校生徒のところへの家庭訪問や電話連絡に追われ、自由の身になるのは夜8時ごろとなる。夜8時であればましかなという中学校も多いはずだ。
クラスの大半を放っておいて一人の生徒に教師が莫大なエネルギーをかけることになる担任もでる。 これが学校文化だからと放置されているのが今の時代だ。
しかし、これを放置せずに処方していくとなると、莫大な予算がいるのも事実だ。その予算がないため、一人の教師が何役もやっているのが現状だ。
カウンセラーが学校に配置されて久しいが、週1日だけというのが定番で、現状の問題解決には遠い、焼け石に水というところだ。カウンセラー配置の事実を作るためと思われても仕方ない日数だ。
やはり、民間や地域が立ち上がらないとこの問題は予算的にも物理的にも解決は遠い。
学校にしがみつく必要はない
私から言わせれば、いやなら学校に来なくてもよい。これは突き放して言っているのではない。
申し訳なさそうに、学校に来れないことを学校に謝り、不登校に罪悪感を持つ生徒や親がいるのが不思議だからだ。日本の学校システムが狭いのだから、日本のシステムの問題なのだ。
学校も一つの選択肢だ。学校に行かないのも一つの選択肢だ。
ただ、学校に行かないとなると、学力をどうつけるのかという問題が残る。そこでそれを補完するシステムが必要になる。それを作るのにお金、人が必要になるのだ。公立で無理なら民間で作ろうではないか。
「強制捜査された時点でどのみちこうなると思っていた。社長が辞めることも驚きではない。この1カ月くらい、社内でうわさになっていたから。事態の大きさを考えれば、そうなるだろう」。電通の男性中堅社員は28日、書類送検や石井直社長の引責辞任について冷めた口調で語った。
電通は長時間労働を防ごうと、10月から「午後10時以降の全館一斉消灯」を続ける。この社員は淡々と続けた。「今は繁忙期ではないのでそんなに自宅に仕事を持ち帰ってはいないけど、自宅からメールを送ったりはしている。『10時に帰れ』と言われても、仕事が減るわけじゃない」
別の30代の男性社員も、「今の会社の取り組みはある程度評価できるが、仕事を持ち帰る人が周りで増えている。会社はこうした抜け道をなくすことにも取り組んでほしい」と注文を付けた。
朝日新聞デジタル 2016年12月28日 21時24分
この記事に同感だ。学校現場でも、管理職は早く帰るようにと職員に伝えるが、仕事量は減ってないどころか増えている。
これしろあれしろと、しかし以前より早く帰れと言う。ひそかに持って帰ってはいけない仕事を持て帰るか、土曜日曜に来て仕事をするかだ。
中学校では、授業が始まっているのに入らない生徒の対応や、服装、頭髪やその他の生徒指導に
手がかかる。それが少ない学校は精神的にも肉体的にも負担が少ない。
生徒指導に時間がかかる→本来業務が圧迫される→帰る時間が遅くなる、教材研究が不十分、→睡眠不足、余裕のない生徒対応や指導が生まれる
このようにしてしんどい学校は悪循環を起こしている。この流れの中では自己の生活をなげうって教師をするしかない。
教師の隠れた犠牲の上に学校が成り立っているところがある。
先に中学校の実態を書いたが、今回は支援学校だ。
知り合いの学校の実態を紹介する。
それがすべてではないので誤解のないよう願いたい。
その支援学校は休憩は45分間確保されている。だいたい生徒が帰った後から始まる。しかし、中学校のように部活指導が終わった18時とかではない。生徒は3時20分ほどにはスクールバスなどで帰宅しているのでそこから45分間だ。
コンビニに行ったり、煙草を吸いに外に出たりする人が多い。自由にしている。もちろん仕事をしたければしたらよい。会議も16時から始まる。
もし終わり1時間(16時から17時)の休みを取りたければ、学校を16時の45分前に出られる。つまり15時15分に出ても1時間休として帰れるのだ。
これは中学校にはない。中学校には45分の休みなどないのだ。それでいて、中学校の方が給与は低い。給与のことを言うとやらしさが出るが、知り合いの学校の教員のほとんどが支援学校より中学校の方がしんどく休憩のないことをよく理解している。なぜなら、中学校のしんどさを体験して転勤してきた人が多いからだ。
子どもたちと一緒にとる給食や昼食時間を教員の休憩時間と考える方もいるようだが、少なくとも私の学校では給食時は戦場と化す。
まず、給食当番をきちんとさせるための闘い。もし、担任がさぼる子どもを放っておいたらクラスの子どもたちからの信頼がなくなる。一人さぼらせると、そこからクラス崩壊が始まる。その恐怖との闘いと子どもたちとのせめぎあいが給食指導だ。
次に配膳。平等に配膳されるかを教師がしっかりと見ておかなくてはならない。
見ていないといつの間にか弱いものには配られないことがある。例えば、おいしいプリントか出ると、全員にいきわたらないことがある。誰かが2,3個とっている。教師の目を盗んで余分に取っていくのだ。出てくるまで給食を食べさせない。
この時、子どもたちとの駆け引きにかなりエネルギーをとられる。
次に力のある子どもが弱い子に「プリンちょうだい」と言う。弱い子は断ることができない。これを見逃すと「いじめ」に発展する。保護者や管理職、他の子どもたちのまなざしが頭によぎる。低い評価につながる…という恐怖心がよぎるのだ。すかさず強い子に指導を入れる。
給食時は緊張感で心はかさかさになる。しかし、そこを奮い立たせて、笑顔を忘れず、先ほど指導した子にも柔らかく話しかける。緊張ばかりしたクラスにならないよう心を配る。
給食が終わると次の闘いが待っている。あとかたずけ当番だ、これもさぼりを出すとクラス運営が破たんする。さぼって逃げ出そうとする子どもを捕まえてときに説得して当番をさせる。
昼休みはできる限り教室や廊下にいることにしている。昼休みこそ問題が起きる時間だからだ。たぶん保護者から見れば、子どもたちとたわいもない会話をしているようにしか見えないがそうしながら見張っているのだ。
次の授業がなければそのまま5限目が始まるまでそこにいる。授業があれば、すきを見て職員室に準備をしに行きすぐ教室へ戻る。
空き時間はもちろん授業準備をしたいが、悔しいができない。授業に入らない子を探したり相手をしたりで終わる。
授業が終わるとホッと一息だ。しかし、会議か部活指導。部活指導も手を抜くことはない。もしかしたら会議や研修の時間に休憩しているのかもしれない。
教員の事務量が多いといわれ続けているが、新任の指導教諭が作る書類もほんとうに哀れだ。指導教諭のほとんどが適当に作成している。管理職も期日までに委員会に書類を提出することで頭がいっぱいでその内容など頭にない様子だ。つじつま合わせや形を整えるために作成する書類ほど無味乾燥なものはない。
新任が研究授業をするのに指導案を作る。大変な時間をかけて作っている。だが、この指導案、研究授業をするときだけのもので、普段の授業にはいちいち作成していられないものだ。指導案は有効なものだと思うが、実用性はない。それに研究授業のためのよそいきの授業なんていくら研究しても役に立たないと感じている教師も多い。
教師に大切なのは言うまでもなく「人間力」だ。人間力の中で重要なのはコミュニケーションの力だ。
子どもたちはもちろんのこと同僚や保護者とのコミュニケーションはとても重要だ。偏差値の高い大学を卒業していてもコミュニケーションの能力は高いとは限らない。どちらかといえば、学生時代やんちゃだったやつほどコミュニケーション能力があるような気がする。
だが、そのコミュニケーション能力を高める研修ほどしにくいものはない。また、研修を受けたからといってすぐに成果がでるものでもない。なぜなら、幼少より作ってきた能力だから高めるにはスクラップアンドビルドしなければならない部分が多く、長期戦となるからだ。
教師の人間力をつくる研修や実践が前面に出てくれば、学校は必ず変わる。
その友人の話をまとめると…。
ある生徒が急に人格が変わったようになるという。何かわからないが、スイッチが入ると手が付けられない。その場は暴言・暴力の嵐に変わるという。また、どこであろうが床に寝て起きない。
その時の名誉の傷を見せてもらった。まさに拷問でもかけられたのかと思うほどの惨状だった。
しかし、その生徒もクールダウンして元に戻ると話が通じるようになるという。
で…どうしたのと聞くと、精神科にかかり薬を処方してもらったという。しかも次第にその症状は穏やかになってきたとのことだ。
その話をしばらく聞いていて、あの子を思い出した。以前の学校にいたU君だった。全く同じだ。
だが、全く違うのが医療機関へのアプローチがなかったことだ。処方箋は、ただただ腕ぷしの強い体育教師が興奮が収まるのを押さえつけて待つことだけだった。
中学校の教師が明らかに生徒を病的だと思っても、保護者に精神科への相談を勧めにくい。その反面、支援学校では、精神科医が巡回して校医相談に来ている。かなり精神科医に相談しやすい環境にある。
中学校には、かけ算の九九さえまともに言えない生徒やほとんど漢字が書けない生徒も厳然としているのだ。さらには前述のU君のように病的に自分を見失う生徒もいる。さらにADHDとみなされる生徒も一クラスに1人は必ずいる。
この生徒たちのほとんどが特別支援のまなざしや医療の支援対象として見られることはない。
自分を見つめることで今までやってきた常識が常識でなくなるときがある。そのとき見える風景が変わる。追い求めるものこだわるものが変わる。
ある教師は、結婚をきっかけに料亭の女将への道を歩んだ。結婚するまでは、体育教師であり、バスケット部の鬼顧問であった。私が結婚して数年後に電話をかけると、「生徒に偉そうに言ってたことが本当にはずかしい」と開口一番に伝えてきた。その時は「へーっ不思議なことを言うもんだな」と心情を察すことができなかった。
今私は、部活動の指導の中心から外れ、客観的に見ることができる立場にある。もう一度部活動を熱心にする意義を問いただすことが自然にできる。
だが、問いただせば問いただすほど、自分中心だったと後悔が湧く。指導の一つ一つが名誉を追い求めていた指導だったことが恥ずかしい。強力な求心力がなければ部活動の顧問などできない。ある意味部活動は一つの顧問を中心とした宗教団体のように思えるときもある。
学習指導要領1本では今の中学校は多様化する生徒たちに対応しきれない。学校では同じカリキュラムを教える、これが当たり前になっている。だが、この古びた考え方を脱却したときにしか光は見えない。
支援学校では、ひとクラスに10人おれば、10人に同じカリキュラムを施す枠組みは存在しない。10人を様々な角度から複数の班に分けて教育するのが当然となっている。
「違いがあって当たり前」が根底にあり、教師も生徒も保護者もその流れに乗って教育に向かっている。
以前、ある聴覚支援学校の教師から聞いた話だが、中1の中位の下グループ5人を教えているが、独自の教材でカリキュラムを組んでいるという。
例えば、中1の数学では、正と負の数、文字式、1次方程式の基礎基本(特に計算)に9ヶ月をかけ、あとの3ヶ月で図形の計量の精選した問題と9か月間学習した計算中心の復讐をするという。
このやりかたは、一般校の教師にとってうらやましい。なぜなら一般校でも下位30パーセントの生徒はこの方法に適しているからだ。下位30パーセントの生徒にとって、教科書の応用部分の授業を聴くことは苦痛だ。授業する方にとっても、彼らを放ったらかしにして授業をしているようで嫌だ。
中学校の下位10パーセントの生徒はさらに悲惨だと考える。九九ができない、小1の漢字が読めない。また、ADHDであろう生徒たち、何らかの原因で荒れている生徒たち。このような生徒たちに一律に授業を行うことは無謀だ。
この生徒たちに丁重な教育を施すためには、今の教師の数や施設では無理がある。
これらの問題の解決を切望している行政や教師、地域の人たちはかなり多い。しかし、解決どころかますます問題は複雑化している。一刻も早く教育の多様化路線を国が認め、多様な生徒たちに対応できるシステムを構築すべきだ。
大阪市ではひどく手に負えない生徒を隔離するシステムがある。私は手に負えない生徒に労働環境を与えてもよいのではないかと思う。
実際、中学校では職場体験学習を数日間実施している。働くことを通して何かをつかんで欲しいと願うためだ。生徒によっては、数日間だけではなく数ヵ月間実施してもよいと思う。長く働くことによって初めて得ることがあるからだ。
学校に行っても教室に入らず、他の生徒の邪魔をして1日を無駄に過ごすより、数ヶ月間労働を体験することで、得ることが多いと考えるのは私だけだろうか。
学習指導要領にのっとって、教室内に押し込むカードしか持ちえない我々教師に、多様なカードを生徒たちに行使できる環境を与えてほしい。また、行政が学校の枠を超えて生徒たちを支援する団体への資金援助を進めてほしい。それによって救われる生徒たちは少なくない。
このような中で、暑さをしのぐ工夫をしている部も多い。ポカリスエットなどを大量に用意して水分を十分にとらせる。これは教師が負担している場合が多い。
次に日中の熱い時間帯を避けて活動をする。朝6時台に活動を始めている部もある。また、夕方4時から6時までの時間帯で行う部もある。私も経験あるが、夏の朝6時台はまだ活動しやすい。休憩なしで8時ごろまでできるのでとても効率がよい。夕方は4時ごろから活動しやすくなり5時6時と涼しくなるので体は元気になってくる。夕方7時まで活動すると少し心情的にさみしくなってくるが、1日の終わりまで頑張ったので充実感にあふれる。
ここで腑に落ちないことがある。部の顧問は朝早く来たのにもかかわらず、終わりは夕方5時までなのだ。当然、早朝手当など出ない。6時半から勤務したなら、2時間早く帰らせてやってほしい。教師の健康上の問題もあろう。
中学校はまさににブラック企業だ。以前いた中学校では、休憩がとれなかった。
朝、7時に出勤して。部活動の早朝練習。給食時間は給食当番のさぼりや配膳を指導。もちろん食物アレルギーへの対応もする。
とりわけしんどいのが、給食中にいない生徒を探してクラスへ連れ戻ことだ。この時点で自分の給食はほとんど手を付けられていない。
授業が終わり終学活が終われば一安心。ホッと一息ついて職員室に戻るが、部活動の生徒がカギを取りに来る。すぐに部活動の指導に行く。6時ごろまで指導したあと教材研究やその日の事務処理。心配な生徒のところへ家庭訪問に行くときもある。
授業のない空き時間に休憩をとれば良いのだが教材研究や打ち合わせなどで時間がつぶれるし、授業中校内を徘徊している生徒への指導がある。徘徊していなくても、徘徊をゆるさない体制をとるために校内を巡視する。給食や昼食はホッとできる放課後にとることもある。
教員は、45分の休憩を与えられている。中学校はそれがとれない人が多いし、休憩時間などの意識がない。特別支援学校では、例えば3時15分から4時までと設定されていて、その休憩時間内に外に出てコンビニやたばこに出かけている。会議は4時からが多い。
しばらく更新をしなかった。
もう退職したわけではないのだが、教員だという意識が薄くなったような気がする。退職後のことを考え、あることを実行しているからかも知れない。それは「賃貸経営」だ。
退職しても、すぐに年金は出ない。
再任用は65歳まで。
私の年金は月20万あるかどうかだ。
月8万の住宅ローンが残っている。
まさに私は貧乏老人予備軍といえる。
年金も医療費や税金で飛んでしまうことを考えると、生活保護のほうが豊かに思える。実は近くに生活保護を受けている友人がいる。リストラから鬱になり働いていない。医療費は無料だし、住居費も出ている。
夢を実現したい。准看護師学校をつくることだ。そうなるとかなりの準備費用がいる。これをねん出するには寄付か自分で稼ぐかだ。
退職してから自分で稼ぐには、2つしかないと考えた。賃貸物件を持って稼ぐかブログを書いてアフェリエイトで稼ぐことだ。このブログはアフェリエイトは貼っていないので稼ぎはないが、月2万pvあるので月数千円ほどアフェリエイトで稼げる…笑うばかりだ。
しかし、賃貸の方は少しずつ進んでいる。賃貸で収入が出てきた。
賃貸経営の本を読み実践していると、自分が教師なのを忘れてしまう。しかし、借主から「おっちゃん…」と呼ばれたりすると、急に違和感が出る。多分、平日の昼間は「先生」と呼ばれているからだ。
少し古い家を安く家を買って、リホームを見積もった。床のフローリングの張り替えだけで10万は飛ぶ、階段のじゅうたんの張り替えで12万、家のクリーニングで6万、浴槽の入れ替えで数10万、洗面台の入れ替えで14万。「うわーーー」どれだけ飛んでいくんやぁと体に悪い見積もり明細表を見た。
だから、業者に頼まず、自分でやることにした。休日はこの作業で埋まる。幸いにも先ほど出てきた生活保護の友達が手伝ってあげると言ってきた。私が貧乏老人にならないために。だから少し希望はある。
昨日、電動丸のことと電動研磨機を買ってきた。休みの日はリホーム、DIYという言い方もあるらしいが、その動画を見て懸命にリホームの仕方を研究している。
いろいろ賃貸経営に関することをやっていると、面白くなってくる。教師よりこっちの方が面白いかなと一瞬だけど思う時がある。
このGWもほとんど賃貸関係で埋まっている。
貧乏老人にならないためもあるが、本当の目的は「准看護師学校をつくる」と「中学校を支援するシステムをつくる」ことだ。そのための第1歩として私は決断した。
過去の非行歴(万引き)が原因で、担任教諭から志望校の推薦を得られないと言われ自殺をしたが、過去の非行歴は事実ではなかったという。
しかし、1回万引きをしたぐらいで推薦しないとかあるのかなと思う。大昔はあった。しかし、その時は家庭訪問で親に言いにいったことを覚えている。そして、親は校長に懇願してきた。だが、推薦は取れなかった。
今は、それぐらいでは…覚えないなぁ。しかも、推薦が取れないことを本人だけの確認で終わらせる進路指導はやってないな。最低電話で親に確認か、必ず、3者面談か家庭訪問で親子ともども確認するのがパターンだろう。
どうした、緑が丘中学校。なんか変だぞ。
不登校や中退した生徒を受け入れ全国的にも知られる北星学園余市高校について、運営する学校法人は、来年度の新入生が定員のおよそ3分の2に満たなかった場合、4年後の閉校に向け検討を本格化させる方針を固めました。
北星学園余市高校は、「やんキー母校へ帰る」で一躍有名になったが、通信制高校などに押されているということだ。
埼玉県北本市の市立中学校全4校が、給食費が3ヶ月以上未納の家庭には給食を停止する旨の通知を出したことが議論となっている。
朝日新聞によれば、「文部科学省が全国の公立小中学校583校を抽出して行った調査では、12年度の未納者の割合は0.9%。法的措置をとった学校は1.1%。完全給食を実施する公立小中学校(約2万9千校)全体での未納額は推計21億円余りに上る」とのことだから、もはや個別に対処できるレベルをはるかに超えている。
さて、その記事の後には「そのような懲罰的対応ではなく支援を」、「保護者と信頼関係を築く必要」との識者の意見も付け加えられていた。まことにごもっとも。しかし、そのような精神論を繰り返すだけでは、何の解決にもならない。どうすればいいのかをここで考えてみたい。
この問題の背後には、本来の業務とは思えない事例に現場の先生方が翻弄されているという実態がある。よく知られているように、日本の、特に小中学校の先生方の忙しさは異常だ。生徒たちとじっくり向き合えるはずの貴重な時間を奪い去るような雑務からは極力解放してあげるべきだ。給食費未納問題を考えるとき、この視点を欠いてはならないと思う。
この問題の難しさは、経済的に払えない家庭と、払えるにもかかわらず払わない家庭が混在している点である。
前者に対しては適切な支援が必要である一方、後者に対しては結局、今回のような対応しかないのではあるまいか。単に現場の中学校任せにしているだけで明確な方針をたてないでいては、事態を悪化させるだけだ。
北本市の場合で言えば、該当する43名全員が納付するか、納付する意思を示したという。必ずしもそうならなかった場合でも、このような明確な態度を示した結果として本当に支援を必要とする家庭を把握できれば、はるかに細やかな対応が可能となるはずだ。
「罪のない子供に親の責任を押し付けるべきではない」という意見もよくわかる。しかしそれでは、払えるにもかかわらず払わない家庭をそのまま容認することが子供の為になるかどうかは大いに疑問である。
いずれにせよ、これは北本市だけの問題ではない以上、早急に国レベルでの指針を明示し、現場で対応せざるを得ない人々の心理的負担を少しでも軽減すべきである。その場合、
1) 義務教育での給食費は税金でまかない、各家庭から徴収しない。
2) 給食を廃止し、各自が昼食を用意する。
という選択肢がありえる。
我が校にも未納者はいる。この問題の責任を教員が担うとすれば、おかしなことだ。事務レベルで解決すべきことだ。
ただ、教員はこのとき、無関心でいるわけにはいかない。未納という現実を受け止め、子どもたちの背景を知るチャンスとしたい。保護者の考えを聞き、保護者の苦悩を知ることだ。もっと言えば保護者と友だちになればいい。言い方をかえれば保護者にも寄り添える教師となることだ。
なぜなら、そこから子どもに対する様々な解決策が広がってくるからだ。
未納はバツ。未納する保護者はバツ。
この ○ × の考えから離れると解決策が見えてくるものがある。
一定の基準を満たしたフリースクールに通う子どもは、在籍する小中学校への出席と同じ扱いにできる仕組みを考える。有識者会議を設置し、早ければ2016年度からの制度化をめざす。
フリースクール全国ネットワーク(東京都)によると、フリースクールは全国に約400~500あるが、規模は10人程度から100人を超えるものまで様々だ。同省では実態調査を行った上で、児童生徒の学校復帰や社会参加で実績を上げているなど一定の基準を満たしたフリースクールに通っている場合、出席扱いとする方向。現在、出席扱いとするかは、在籍する小中学校の校長の裁量に委ねられている。法令などに基づく正式な教育機関として位置づけ、フリースクールに通う児童生徒に対し必要な費用を補助する仕組みも検討する。(2014/8/26 読売新聞)
確かにフリースクール登校生徒を出席扱いにすることは、不登校生徒への学習や生活の道を一定広げたように思える。
問題は、フリースクールの費用が高いことにある。我々がみてきた限り、不登校生徒の親がフリースクールに通わせることを決断することは稀だ。なぜなら、しっかり経営しているフリースクールでは月50000万程度の費用がかかるからだ。それに交通費も必要だ。
本当に不登校生徒に学校外で教育を受けさせるには、人道的立場で儲けを度外視してフリースクールを経営しなければならない。それには、寄付を募るか、公的援助を受けるか、自腹を切るかだ。
校長の後悔
全面禁煙の学校の体育館裏で教員らの喫煙を認めていたなどとして、大阪府教育委員会は10日、府立高校の男性校長(58)を減給10分の1(1カ月)の懲戒処分にし、発表した。「指導が不十分だった」と話しているという。
校長は2013年6月、校舎1階の喫煙室を廃止する際、目立たない場所での喫煙を認め、教員らは体育館裏のフェンスで囲まれたスペースで喫煙していた。朝の通学時間以外は生徒が通らない場所だったといい、昨年4月に校長が異動するまで続いたという。校長自身は愛煙家ではなかった。府教委は08年3月、全府立学校の敷地内を全面禁煙にするよう通知していた。
朝日新聞(石原孝)2015年7月10日18時44分
ぼや:教諭喫煙で 禁煙の中学校 福岡
毎日新聞 2015年10月24日 東京朝刊
福岡県久留米市教育委員会は23日、市立北野中で22日夜に教員の喫煙に起因するとみられるぼやがあったと発表した。市教委は10年前から市内の学校敷地内を全面禁煙としているが、同中では校長(58)と教頭(52)を含め計4人の教員が常習的に喫煙していた。
市教委によると22日午後8時25分ごろ、校舎2階の男性教員用更衣室でぼやがあり、ごみ箱とモップ、壁の一部を焼いた。火災報知機で気付いた残業中の教員3人が消火し、けが人はなかった。警察と消防の調べで、ごみ箱のたばこの吸い殻が火元と判明した。
同校によると、更衣室では出火直前の22日夕方に教頭と50代の教員が喫煙。空き缶に吸い殻を入れており、それを管理人がごみ箱に入れ出火したらしい。
市教委の今月の調査では、66の市立学校のうち15校で教員が校内喫煙をしており、同中の校長ら4人も含まれていた。市教委は改善を指導しているところだった。同校の大熊彰校長は取材に「ルールは知っていたが認識が甘かった。火事を知ってから禁煙した。他の3人にも指導する」と陳謝した。【中村清雅】
校長が校内での教員の喫煙を暗黙に認めるのはなぜか。
理由はただ一つ、「癒着」だ。
指導をすることで、その教師と関係を壊したくないからだ。
特に、ある意味立場の強い教師が喫煙をしていると、指導できないことがある。
例えば、腕力が強く、生徒から怖がられている教師。学校にはもってこいの用心棒のような存在。このような教師が、横柄な態度や教員間のルールを見事に破っていても、指導しない校長はいる。なぜなら、そのような教師から反発をくらうと学校運営がやりにくいと感じるからだ。
しかし、若手教員や立場の弱い教師が喫煙していたら、指導するだろう。教育委員会にあげるぞ、と簡単に脅すだろう。
このような校長の心理は、多くの教員から見破られている。そして、職員室は不信感であふれている。
校長は、どの教員にも公平な立場で接する姿勢を貫くべきだ。校長の一部の教師を特別扱いにする姿勢は、一時は良くても学校全体を暗転へと導く。なぜなら、その他大勢の教師たちがやる気をなくし、結局、総合力低下を招くからだ。
実際、このような校長と学校を見てきた私が言うのだから間違いない。
その学校では、今も校内で一部の教師の喫煙が黙認されている。
だが、学校に来るが、やることのない教員も多いと聞く。なぜなら、夏休みに生徒は学校には来ないからだ。部活動も補習もほとんどない。だから、校内で勤務時間が終わるまでどのように時間をつぶすか悩む教師も少なくないと聞く。
支援学校のグラウンドや体育館は夏休みは空っぽだ。中学校では部で体育館やグラウンドの奪い合いをしているのにだ。夏休みに、支援学校のグラウンドや体育館を解放できれば、喜ぶ部活顧問もいるのではないか。
また、暇を持て余している支援学校の教員に、中学校や高等学校での学習支援や部活動支援を許可すのことができないのだろうか。支援学校には体育教員が多い。力を持て余していると思うのだが。
最近、学校が変わってきた。ゆとりからの脱却ということだろう。授業時数の確保が最優先されている。
昔は、9月1日から2学期が始まり1,2週間ほど短縮授業で体を慣らさせてから通常授業に移行する。それが、8月の25日前後に2学期の始業式があり、翌日から6時間授業という公立学校もでてきた。寝屋川市などは8月22日始業式だ。また、定期テスト後も帰らさず授業を行ったり、土曜授業も模索しだした。
現場の教師は生徒に嫌々学習をさせても効果の上がらないことは知っている。生徒の荒れや怠惰な状況を生み出すことにつながることも分かっている。だから、このような施策に呆れている。そして、ますます生徒の荒れや不登校を増やしているように思える。
部活動をしている生徒の中には、心身を休ませる暇もない者もいる。放課後の練習だけでなく朝練習や土日の練習があり、塾も通うのだから文字通り過密スケジュールとなる。学校生活に適応できなくなる生徒が出てきてもおかしくない。
中学生は授業、部活、塾と走り続けさせられ、エネルギー切れになることも避けられない状況がある。走り続ける意味をゆっくりと考える暇もない。
生徒たちは、私はなぜこんなに走り続けているのだろう、と考えることもあるのだが、立ち止まって考えていると置いていかれそうになり怖いという。
今の不登校の考え方から読み取る。
京都新聞 2014,12月23日
来春開校する昼間定時制の京都府立清明高(京都市北区)は、個人で時間割が組める新しい形式の学校で、不登校経験者や自分のペースで学びたい生徒や保護者から注目を集めている。
9月の説明会には府教育委員会の予想を上回る参加者があり、12月2日に公表された中学3年生対象の進路希望調査では定員の2倍を超える志望があった。一方、学識者は、全日制高校のような学級活動がほとんどないため人間関係がつくりにくいなど課題も指摘する。
9月20日の説明会は申し込みが殺到し、生徒や保護者ら約600人が参加した。予定していた京都商工会議所(中京区)の講堂では足りず、近くに別会場を急きょ用意するほどだった。
不登校という宇治市立中3年の女子生徒(15)=宇治市=は説明を聞き、「1期生は自分たちで学校をつくれるので憧れる。すごく行きたくなった」と話した。母親(54)も「暗いイメージがあったが、説明を聞いてさわやかな印象だった。娘に新しいスタートを切ってほしい」と期待を寄せた。
清明高は、午前と午後の2コースがある多部制単位制。基本は4年間で科目を履修するが、必要な単位を修得すれば3年での卒業も可能だ。科目の選び方で、特定の平日を休みにすることもできる。校舎には少人数授業に対応した仕切り付き教室のほか、読書や自習スペースを9カ所に備える。スクールカウンセラーの常駐も検討する。
京都に新しい昼間定時制の高校が出来たのか…とPCの前でく見ていたが、娘に新しいスタートを切ってほしい…という母親の言葉を読んだとたん、おかしいと思った。
「なぜ、不登校の中学生は高校からしかリセットできないのや」と、疑問がよぎったのだ。
不登校の保護者の中には、うちの子が学校に行かなくて申し訳ない、という想いの人がいる。しかし、申し訳ないと思わねばならないのは文科省だ。多様化している子供たちに対して、一律な路線しか提供できないからだ。
中学校にも高等学校のように通信過程や不登校支援のための学校があってもよい。中学校以外でも学習できる環境の充実を図ってもよいと痛切に思う。
そろそろ転勤する教員が分かってくる。大阪市では新任4年目、転任してきて7年目の教員は、転勤対象になるらしい。
最近、大量採用で新任から4,5年経つ教員が多くなり、同時期に出ていく教員も多くなってきたという。
しかし、それが次年度の校内人事の足かせとなっている。転勤対象教員が多いと、次年度の的確な人事配置がうまく出来ないからだ。
だから校長は、なんとか必要な人を引きとめなければならない。転勤希望を出させないようにするということだ。それには積極的にその人に働きかけなければならない。「あなたがどうしても必要だ」と。それだけでは力がないので、来年度快く働ける環境整備を提示し、残ってもらうメリットをつかんでもらうのだ。
特にしんどくなってきた学校はそれが必要だ。しんどい学校に誰が好んで残る者がいるのかということだ。もっとましなところに出ていきたいと思うのが人情だろう。
引き止める校長の度量が問われる季節でもある。
学校のしんどさには2つある。教員同士の人間関係のしんどさと生徒たちのしんどさだ。まだ耐えられるのは、ある程度生徒がしんどくても教員の絆がある時。この学校で頑張ってみようと思う。安心感があり支えられていると感じるからだ。
残りたくないのは職員室に殺伐とした雰囲気が流れている学校だ。「はやく出ていきたい」のつぶやきがそこかしこで密かにささやかれている。
この職員室の雰囲気作りも校長の肩にかかっているといっても過言ではない。
ただ、それを自覚している校長は少ないし、校長が職員室の密かな雰囲気をつかむのは難しいことだ。
教育劣化は日本経済の大問題だと見出しがついていた。表紙には4つの言葉があった。ブラック化する職場、いぞがしすぎる先生たち、教室から先生が消える、広がる教育格差の4つだ。
本文の内容はデータもしっかり入れて説明されているので分かりやすい。しかし、私が一番心に残ったのは本の後ろにある「編集部から」という小さな記事だった。
編集部から
「教師と言うだけでなぜ小さな事故や事件でも記事にするのか」。新米新聞記者だった頃、こんなことで上司と口論になったことがあります。上司の答えは「教師の動向は世の中の関心が高いから」というようなものだったと記憶していますが、今回の取材であらためてこうした「教師たたき」や特別視は行きすぎだ、との意を強くしました。
教師は特別だという考え方と、何か事が起きると「教師(学校)に対応させろ」と、教師を便利屋のように使う発想には通底するものがあるように思います。教育改革が叫ばれるたびに、新たなやることメニューが学校現場に持ち込まれ、それが教師の多忙化や疲弊につながっていく。
そろそろ教師のできること、できないことを冷静に分類する必要があるようです。
このような冷静にものごとを考え判断してくれている編集者に心より感謝したい。励まされる思いがした。
東洋経済の特集にも大阪の教員の疲弊が掲載されているが、給食については触れられていない。ここで大阪市の給食について述べておきたい。
保護者の良かれと思うことと教師の良かれと思うことに違いはあるが、大阪市の中学校の給食は、まさにそうだ。
橋下市長の掲げる全員給食は、中学校1年生ですでに始まっている。保護者は弁当を作らず、楽になった。
しかし、生徒は小学校の給食の方がはるかにおいしかったと毎日不満を口にする。そして、教師に何とかしろと迫る。
大阪市の教員が言うには、自分も食べたが冷たくまずかったらしい。
何より、教員に給食指導という仕事が増えた。指導の行き届かない困難校にとっては、給食当番をきちんとさせるしんどさやアレルギーへの対応などに追われ泣きっ面に蜂という状態だ。だから、全員給食ではなく、選択制のまま置いておくべきだったとほとんどの教員が痛切に思っている。
なんでも学校にまかせるやり方は教師を疲弊させるだけになる。結果的には大阪によき教育は決して生まれない。
橋下氏は保護者の意をとらえて給食制度を導入しているつもりだろう。しかし、今後、中学生たちが成人になった時には橋下氏を支持しない存在にまわるだろう。その数は計り知れない。
マスコミは学校を外から見ることはできても、事実を知ることはできない。なぜなら、学校の中に入って、日常の授業を取材したり、職員室の実態を知るべく職員室に常駐することはできないからだ。もちろん校内にビデオカメラを設置して生徒の本当の実態を知ることもできない。
もし、学校にいて生徒の実態を目の当たりにすることが出来たら教師を見る目は必ず変わる。
保護者にいくら口で説明しても子供の実態が伝わらない時、来てもらって見てもらった時に初めて納得してもらえたことはよくあることだ。
その面では、様々な角度から実態を検証することが出来た東洋経済の特集の意義は大きい。しかし、この問題を解決する策を提言するまでには至っていない。それは我々教員のこれからの役目でもあろう。
大阪市内に入ると景色が一変する。道路や町並みは煩雑でごみも多い。少し離れて北に行くと吹田市や豊中市そして池田市がある。吹田市千里にいくと、町並みは整備されてとてもきれいだ。
大阪市内の学校はまず敷地が狭い。緑も極端に少ない。生徒たちがよくがんばって生活していると感心する。グラウンドは豊中市や吹田市の学校の中庭程度しかない学校もある。学校教育がスムーズに行われているとは思えない。
そこで、提案が2つある。
一つ目は、小学校と中学校の施設の共有化の推進だ。大阪市内では小学校と中学校が隣接しているところが多い。なので体育館やグラウンドなどを相互に使用することが可能になる。問題はあろうがメリットは多い。
二つ目は、空いている市や府の施設を中学校に開放することだ。平日は、市や府の施設でガラ空きのところがある。無料で開放すべきだろ。
こんなことはすぐにでも出来ることだ。
大阪市は中学校給食の完全実施など、現場に負担になることにエネルギーと資金をつぎ込んでいる。現場が仕事をスムーズにできることに力を入れるべきだ。
今年、小学校の採用試験の倍率が1,99倍と聞いた。さらに、教頭職の希望者がいないと聞く。
当然だろう。
大阪市の教育に魅力がなく、現場そのものが疲弊しているのだからだ。
学校に来て、授業に入らずうろうろする。授業中に音楽を鳴らしながら廊下を練り歩く。煙草を教室で吸う。テストさえも受けずに自分のしたいことだけをする。そのような生徒を追いかけ、時には生徒から罵倒されながら、小突かれながら、教師は毎日をやり過ごす。
生徒にはそれ相応のそうなっていく事情や背景がある。しかし、問題は親にも教師にも手に負えなくなった生徒をそのまま中学校に置いておく策しかないのかということだ。
学校はどの生徒にも差別なく同じ教育課程を施すことを使命とする。しかし、あらゆる差があり、「個に応じた指導」などという策では解決できないのが現実なのだ。
まず、早急な対策として、中学生で学校に適応(順応)しない生徒の中で、自分を見つめ直したい勉強し直したいという生徒を地域のコミュニティーで捕まえて、学校よりもそちらで面倒をみる必要がある。
言うならば居場所とでもいう所だ。退職教員、学生ボランティア、主婦、これらを動員して作る。
最近、授業中うろうろする生徒を見て、他の学習の邪魔をする加害者と見るのではなく、画一化された教育システムからの被害者と思うようになってきた。
画一化された教育システムとは柔軟性のないものだ。社会は多様化し、流動化している。古すぎるパラダイムで学校教育を動かすと無理が生じる。
教師や市民はパラダイムの転換を迫られている。
本当は大人しい生徒とも話をしたい。
1日が終わると、疲れと共に、クラスの一部の生徒としか関わっていない悲しさがくる。ある時、学年の中にこんな生徒がいたのかと驚いた。学年の生徒たちもやんちゃな生徒を中心にしか関わっていなかった。
早く退職いしたい。退職して、教師の忙しさを助ける仕事をしたい。どのようにすればよいのかまだ構想を練っているところだ。
明らかに一部の生徒に大半のエネルギーをとられている教師が多い。そのエネルギーを他に使えば救われる生徒もいるだろう。