公立学校の真実
★★★
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
分室や分校も合わせると30校はある。私の中学校でも進路相談の季節が始まっているが、すでにこの時期で通信制を希望している生徒が複数出た。
一昔、通信制高校は全日制高校を受験して不合格になった生徒の最後の砦として定時制などと同じく残された道だった。それが今は高校入試の全面に出てきた。生徒のニーズに合った教育内容を充実し、さらにその需要も多いということだ。
通信制高校は、中学校時代に不登校だったり高校を中退した生徒たちを積極的に受け入れている。また、登校日数が少ないので時間があり自分の好きな分野を徹底的に伸ばすために入学している生徒も少なくはない。
このように高等学校の教育では、不登校や学力不足、進路変更を考えて悩んでいる生徒のために充実した教育システムが私学を中心として構築されきた。
そしてそれらが実績をあげている。例えば、クラーク記念高校では国公立、早稲田、慶応を始め有名大学に毎年一定数を合格させている。その他の通信制高校も東大、京大などに進学させているところもあり、全日制の中堅校にいくより学力が伸びるのではと思わせるような面がある。
スポーツ面でも全国大会に出場する選手がいたり、全日制高校より豊富な練習量と専門的なコーチ陣で実績をあげているところもある。
通信制といえば卒業率の低さが不安要素だったが、最近どのような手を使っているのか、卒業率が90%台のところが多い。中学校でほとんど登校できなかった生徒が通信制高校に行き、生き生きと勉強し卒業している。
だから、生徒や保護者、教師の中には無理して全日制高校に行かなくとも通信制高校があるという安心と期待が定着しつつある。
一方、中学校はというと…、月曜から金曜まできちんと通わせることが絶対で、最近は土曜授業まである。
しかし、中学校に適応しなくなった生徒へのケア、サポートはあまりにも未熟だ。
適応できなくなったら、担任を中心に学年教師、カウンセラーが適応できるように頑張る方策だけしかない。
中学校で不適応になり卒業まで家にいる生徒は、卑屈な思いで家にじっとしているしかない。これでは不登校生徒の時間がもったいない。居場所的なサポートはあるが、利用している生徒は少ない。
中学校の不登校生徒たちには、ニーズに合った安心して学習できる環境が早急に必要だ。あの子らにも教育を受ける権利がある。
すでに高校は適応できない生徒へのケア、サポート体制を私学を中心に充実させている。実績もあげている。中学校は、今のシステムを強化していくだけの発想しか見えない。
もうそろそろ義務教育への既成概念を取り払い、新たなシステムを展開していく時が来た。
橋本市長率いる大阪市の塾代クーポンの話は、失礼だが耳を疑った。
塾代クーポンの申請は試行の西成区以外でも既に始まっている。クーポンが利用できるのは12月からだ。
しかし、保護者は今すぐにでも塾に行かせたい。中3生には受験が迫っているからだ。
だが、行かせる塾を決められない。クーポンが利用できる塾の一覧がまだ発表されていないからだ。つまり、どこかの塾に行かせたとしても、その塾でクーポンが使えないとなると塾を変えないといけないからだ。
保護者が市に問い合わせると、クーポンが使える塾の一覧が配布されるのは11月中旬だといわれた。中3生には受験があるのに遅すぎる。あまりにも形だけの未熟な施策を提供しすぎだ、と大阪市内の教員は困惑する。
教員の給与は、優秀な人材を集めるために普通の公務員よりも高くしてきたが、財政悪化を受けて文部科学省は2006年、給与を12年度までに年収で2・76%カットする方針を自民党に文書で示していた。08~11年度にかけて段階的に引き下げたが、削減率は約1%にとどまっている。
教職員の労働組合「日本教職員組合」が民主党を支援しているため、民主党政権(09~12年)のもとで引き下げのペースが鈍ったとみられている。自民党が昨年末に政権に復帰したこともあり、財務省は06年の方針通りのカットに踏み切る検討に入った。
平均年齢である43歳の教員の年収は608万円。1・7%削減すると、年収は約10万円減る。教員の給与の財源は国と地方で出し合っているため、1・7%カットで国は約250億円、地方は約500億円、それぞれ予算を減らせる。ただ、文科省は削減に慎重で、削減幅などの調整は難航しそうだ。
朝日新聞
削減が実行されるかは未定だが、一般公務員並みにするならば一般公務員と同じく残業代もしっかりつけるべきだ。しかし、一般公務員でも残業代は予算内しかでない。残業代の予算が無くなればいくら残業しても無給となる。
90点台、80点台がごろごろいるのに、70点台、60点台は少なく、次に多くなるのは10点台と一桁だ。
なんとも気味悪い。
私の授業は一体何だったのか。だれのための授業だったのだろうと落ち込む。下10人ほどを無視した授業といえる。しかし、この子らを教えるとなると相当低いレベルに落とさねばならない。
次の授業を悩む。
下の子らは私の授業にじっと耐えていたのだ。静かに授業を聞いたふりをして中学校を卒業していくのか。何ともならんのか。それで良しとするのか。
習熟度別授業。予算を付けて習熟度別授業を展開している市町村が多いが、成功していないところが多い。原因はレベル別に分けても、内容が同じだからだ。レベル別に分ければ内容も別にすべきだ。テストも別でよい。もちろん評価は受けたテストでの到達度でよいのではないか。
九九さえもしっかりしていないのに応用なんて教えてもらう方が苦痛だ。例えば、習熟度別授業を九九からしてもよい。評価も九九が出来れば高く評価してやればよい。それが本当の絶対評価ではないだろうか。支援学校では評価はそうしている。その子に合った目標を立てて評価をしている。これが一般の学校では許されていない。
その子に合った教材で授業を展開すること、これは教える側の基本ではないだろうか。残念だが自分は出来ていない。
ある私立高校ではアルファベットが書けるかを1年1学期中間テストに出している。生徒の実態に合わせているのだ。高校では通信制や単位制などタケノコのように出没し始め、生徒の実態に合わせて自由に教育活動を行っている。
それが許されて、中学校では実態に合わせることは許されていない。教科書を進度表の通りに進むことだけは許されている。保護者から文句が出ないように。
今、中学校を救うには既成概念を脱した考え方で教育を進める必要がある。
一律主義には無理が出ていることを教師は堂々と訴えるべき時が来た。
ふっと教室をのぞくと6人が机に伏せて寝ている。4人が教科書も出さずになにもしていない。
教室は静かだ。教師のチョークの音だけが響いている。
…まだましか騒いで邪魔するより、と自分に言い聞かせるて通り過ぎる。
むなしい。
学校て何だろう。これでよいのか。
違いがあって当然というけれど、その言葉は言い訳に聞こえる。様々な生徒がいて当然。しかし、その様々を支えるのは教師一人。これでよいのか。もっと手厚い配慮がないと今の教育はできない。
昔、私立中学校を退学になった生徒が公立に戻ってきたことがあった。学年には退学になった生徒よりもっとひどい生徒がわんさかいた。思った。こいつが退学になるなら、公立ではクラスの5分の1は確実に退学になる。すごい学校だ。
生徒の学習、友人関係、親子関係などの困難な状況は改善されるのだろうか。その背景に保護者の経済的、身体的そして精神的な困難な状況が存在する。
それらを無視して担任は前へ進めない。
保護者と面談すると、子供のことだけでなく、保護者自身が抱えること、そして経済的しんどさなどを吐露される。
それが今年は多すぎる。
私には、どうもできない。聞いていて重たくなる。出来る限りのことをしてあげたいとも思う。
部活動でも、練習をたくさんやりたいからもっと練習させてくれと生徒は言う。休みの日に学校に来て勉強したいとクラスの生徒はいう。それらの要請にすべて応えていると体が衰弱していくのがわかる。
しかし、不思議なことに衰弱しながらも力が湧いてくるときがある。表現が難しいが。
明日も学校だ。久しぶりに今日は8時間寝た。少し体が戻った。今からの時間を有効に使い、明日に備えよう。
そして少しの間、これからの身の振り方をかんがえよう。第2の人生、この困難な状況を打破する水流の一滴になりたいから。
学校に適応できない生徒がいてもすべて中学校が背負い、その中学校がすべて責任を持つ。 日本ではそれ以外の発想はどこにもない。
この路線の発想を転換する時が来たのではないか。
すでに高等学校では生徒の実態に合わせて、学びの多様性がある意味充実している。
中学校時に不登校であったり、高校中退者などは通信制を初めとして通信制連携校、サポート校など充実した進路が用意されている。
しかも、月に1,2回だけ登校するスタイルや週2、3回また毎日登校など生徒に合わせた学習スタイルで高卒資格を目指す事が出来る。定時制も昼間定時制などをつくり、生徒の実態に合わせて学びやすいようにしている。
なぜこれが中学校で出来ないのか。
義務教育だからか。しかし、現在の困難な課題を抱えた義務教育だからこそ柔軟な学習スタイルの構築を急ぐべきだ。
市民に対して学校選択制のサービスを模索するのも良いが、硬直した中学校の学習スタイルをいち早く壊し、柔軟な学習スタイルを早急に構築していくことの方が最優先課題だ。
しかし、それには法律を変えなければならない。
例えば中学校に通信制は許されるのか。一部許されている。しかし、下のような今の中学生に全く適応したものではない。
中学校通信教育規程
(昭和二十二年十月二十九日文部省令第二十五号)
中学校通信教育規程を左の通り定める。
例えば、頭髪指導なんて学校の責任ではない。夏休みともなれば、ずいぶん多くの生徒が髪を茶髪にする。親が許しているか、親が乗り越えられているので指導できないかだ。それを学校が指導していく。このエネルギーだけでも相当なものがある。ピアスは親があけるときもある。それを学校が外させる。服装の指導も大変だ。勝手にしてくれと言いたいくなる。しかし、放っといては学校の評判が悪くなる。地域からどうなっているのかと問われる。 仕方なく学校が担わなければならない。
学校は指導をやっても親から文句を言われ、やらなかったら地域に学校不信が広がる。サウンドバック状態といってよい。中学校はそういう指導に費やす時間と労力が大半を占めていて学習指導の準備ができない。だが、それでは学校不信がより深まるので、なんとか頑張っている状態だ。
だれか声をあげて学校がやることと家庭がやることを分けるシステムを作ってほしい。
そういうことを言うと、お前がやれよ、という声が聞こえてきそうだ。
しかし、それを許してきたのは、今まで何とかなるだろうと手を打ってこなかった日本人に責任がある。平和ボケだ。
とりわけ教育界では、散々中国や韓国を良い国と言ってきた。
しかし、韓国は本当に自由主義、民主主義国家と言えるか疑問だ。我々日本人が感じ取っている民主主義とはかけ離れた感覚を持っている国と強く認識すべきだ。そして生徒にたちにも教えるべきだ。
親日罪など、日本人の発想からは考えられない。例えば日本でなら、当時の敵国アメリカ等に協力した者の子孫に及ぶまで財産を没収するということだが、人間の尊厳を無視したことになるので考えもしないことだ。それが韓国では堂々と法律として通っている。一部の日本人への入国拒否もある。
日本人も今日の韓国の日本叩きを真に受けて、おかしいなと思う人がたくさん出てきた。日本人からは相いれないものがあるからだ。
もし私が韓国に生まれればその考えに染まる。日本への恨みを持つであろう。ただ、不思議なのは、韓国はキリスト教を信じている方が30パーセント弱いる。キリストの教えは恨みからの解放であった。恨みの民族から脱出することが本当に韓国を繁栄させる第1歩になると信じる。
昔のある卒業生にあった。変わっていた。とげとげしたところがなく丸くなっていた。
やはり人間変わっていくんだなと思った。
話がそれたが、2学期が始まる。この夏休みに髪の毛を染めた生徒たちの指導が始まる。
なぜ、学校がやらなければならないのか。いつも不思議に思う。家がやれよと。
時に校内で黒に戻す。黒に戻す指導にいちゃもんをつける親がいる。
めんどうくさくなって、もう自由でいいんじゃないと思う時もある。
この夏休みに学校に電話がかかってくる。苦情の電話だ。おたくの中学生がこんなことしていた、あんなことしていたと、しかし、思う時がある。それって親だろう。親に電話しろよ。親に責任はないのかな。
頭を下げるのはいつも学校。
愚痴ってみたところがどうしょうもない。愚痴れるだけ平和だということだ。
あと少しの夏休み中に十分に英気を養わなければ。嵐が始まる前に。
従来の論文試験を廃止し1次面接と2次面接のみだという。教頭のなり手がないのだ。
しかも、16日で締め切っても不足すれば、随時募集するとか。
大阪市の友人は笑っていた。だれも教頭試験を受けないという。その理由は一言で「魅力がない」という。また、その言葉の先には、「この身を削ってまで大阪市に奉仕する必然性を感じることはない」という冷めたものがあった。
教頭試験を受ける人は、どこの県でも勉強会などに集いかなり努力する。それでも受からない。受かっても、順番がありすぐには教頭になれない。それが大阪では願書を出せばだれでも受かる状態になっている。異常だ。
なぜそうなったのか。下の新聞記事を見れば理解できる。私も記事と同じく感ずるところが多い。
大阪市教委:市立校の教頭不足 土日は地域行事、
睡眠時間短く 「体も心もボロボロ」
毎日新聞 2013年07月27日 大阪朝刊
小中学校の教頭不足に悩む大阪市教委が今年度、
候補者を指名して昇任試験を事実上義務付ける異
例の策に乗り出した。同市では、橋下徹市長の就任
後、学校選択制や民間人校長の導入などで職場環
境が激変し、負担が増え続けている。「受験を強いる
より労働環境の改善が先では」。教育現場からは悲鳴
も聞こえてくる。
「今年度は特段の事情がない限り試験の出願を行
っていただくことを予定しております」。市教委が5月
、全市立学校長宛てに出した通知には、強い危機感
がにじむ。市立小中学校の教頭昇任試験の受験者は
この10年で5分の1以下に減少。不人気の背景には
過酷な勤務がある。
「睡眠時間も少なく、体も心もぼろぼろだ」。ある40
代の市立小教頭は毎朝6時過ぎに登校、帰宅は午
後11時を回る。自宅に仕事を持ち帰ることも多い。
地域行事への出席などで土日も休めない。
市教委からは報告や調査を求めるメールが1日数
回送られてくるといい、「児童や保護者と接したい
が、日中は事務作業に忙殺される」と嘆く。
大阪市特有の事情もある。昨年度以降、保護者
らの意見を学校運営に反映させる「学校協議会」を
各校に設置。来年度は、約半数の区で学校選択制
を導入するなど教頭の事務量は増え続ける。
一方、市教委は今春から校長を公募で採用し、来春
は半数を民間から選ぶことを決めている。
ある中学校長は「教頭から校長に昇任する道が狭く
なり、教頭のなり手はさらに減るのでは」と懸念する。
教頭は校長より多く労働しているだけでなく、学校で一番労働時間が長い。学校中のシャッターを一人で閉め、鍵をかけて帰るのは教頭だ。
校長や委員会からの要請を忠実に遂行し、時に叱咤される。さらには地域や保護者の苦情は教頭が受けて処理する。また、一般教員の指導もする。
大阪の教頭が疲弊しているなら一般教員の疲弊は明らかで、学校現場の士気は限りなく下がっている。 疲弊した教員たちに囲まれている生徒たちは輝きが薄れていくだろう。
いくつもの教育改革が、教員たちの心に浸透することもなく性急に動きだした。すでに現場では、上に対してもの言わず反発もしなくなった。しかし、「はいはい」と言いながらも後ろで舌を出す。だれも本気で改革などしようとしないのだ。傍観的、冷めた雰囲気が職場を覆っている。
一肌脱いでこの校長のために、この大阪のためにやったろうかという教員はいるのだろうか。
自分一人が声を荒げたところでなにもかわらないし損をする。一肌脱ぐより自分の平和な生活優先。といったところが主流になった。ただ、私はそういう生き方に納得しない。
大阪教委は24日、2014年度の公立学校教員採用選考の志願者(速報値)は1万1307人で、13年度の1万1807人から500人減った、と発表した。採用枠も約2310人から約2220人に90人減ったため、全体の志願倍率は5・1倍と変化がなかった。
府教委によると、志願者数は、堺市の採用が府教委から分離された10年度以降でみると、昨年に続いて最低を記録した。大学新卒者や社会人経験5年未満の若年層が主な対象の一般選考枠の応募が8596人(前年9775人)と大幅減。校種別には小学校教諭の志願者は175人減、中学校は126人減、高校は181人減だった。
理科教育推進のために新設した、企業などで研究開発に携わっていた50歳以下を対象にした枠には、大手企業の研究者ら9人の応募があったという。
府教委の担当者は「一般選考枠での減少の原因がどこにあるのか、しっかり分析したい」と話している。
大阪で講師をしながら他府県に受験しにいく人がいる。どこの県でもそういう事があるのかもしれないが、他府県へ逃げていると思えて仕方がない。
大阪はあまりにも教員の事件が多く、生徒の全国学力テストの結果も低い。また、施設がよいとはいえない。さらに、教員給与が低い。あまり魅力的ではないのかもしれない。
「抑えきれず」電車で痴漢容疑、小学校長を逮捕 大阪
電車内で20代女性の体を触ったとして、大阪府警は22日、河内長野市立加賀田小校長の杉田憲治容疑者(56)=富田林市=を府迷惑防止条例違反容疑で現行犯逮捕し、発表した。「女性のことが気になり、自分を抑えきれなかった」と容疑を認めているという。
阿倍野署によると、杉田容疑者は22日午前7時45~50分ごろ、近鉄南大阪線矢田―大阪阿部野橋駅間の電車内で、女性の尻を左手の甲で服の上から触った疑いがある。阿部野橋駅に到着した際、女性が腕をつかんで電車からおろし、駅員に引き渡した。車内は満員だったという。杉田容疑者は22日は休暇を取り、大阪市内へ知人に会いに行く途中だったという。
府教委によると、1980年に教員採用され、今年4月から加賀田小の校長を務めていた。
千葉県内の小中高校の若手教員の多くは、児童生徒との信頼関係を築くのが困難と感じていることが、県総合教育センターのアンケート調査で分かった。
近年のベテラン教員の退職の増加に伴い、若手教員に経験を伝える教員が減ったことなどが背景とみられる。
同センターでは今年度、子どもたちとの関係づくりや指導等のガイドブックを作成するなど支援に乗り出している。
アンケートは同センターが昨年6月、教職経験6年目の「5年経験者研修」を受けた教員429人を対象に行った。
学級づくりを進める上で「困難を感じていること」を聞いたところ、「児童生徒との信頼関係を築くこと」について「とても思う」「ある程度思う」をあわせると60・4%に上った。
「児童生徒同士のよりよい人間関係を築く」も84・7%で、学級内で良い人間関係を築いたり、築かせたりすることが苦手な教員の姿が浮き彫りになった。
保護者との連携や対応を円滑に行うことについて困難を感じている教員も78・3%と高かった。
1970~80年代にかけて都市部で児童数が増加し、それに伴い大量採用された教員の退職がここ数年続いている。県教委によると、教員の退職は2008年度末の1328人から12年度末には1605人で、新規採用も1245人(09年度)から1618人(13年度)となっている。
同センターでは、ベテラン教員の減少とともに、職務が多岐にわたって多忙感の増す学校現場で、教員同士が話し合う時間を取りづらいことも、学級づくりなどのノウハウが若手に伝わりにくい要因と見ている。
若手教員に限らず、児童生徒や保護者との関係に悩むベテラン教員もいるという。
こうした実態に対応するため、同センターでは人間関係の築き方や学級づくりについて教える「学級づくりガイドブック」を作成した。
「人間関係を育てる」「規範意識を育てる」「同僚・保護者との関係づくり」など、それぞれの項目で必要な意識の持ち方や手法を掲載している。
また、子供との信頼関係を築くための手法として、子供が問題、課題への解決法を自ら考えるよう手助けする「コーチング」や、叱るときに気を付ける点などを挙げた。
保護者との関係では、「途中で口をはさまず、常に穏やかな対応を心がける」などの対応方法も示した。
ガイドブックは各学校に配布し、今後、ガイドブックを用いた研修も実施する。同センターの渡辺宗七カリキュラム開発部長は、「教員としての姿勢や基本的な心構えなどの指針となれば」としている。
ガイドブックやノウハウものをつくっても本当に教員は読んでいるのかと思う。
そんなものの多用で教員の質が向上するとは思えない。
教員は例えれば、人間をつくる職人だ。
だから先輩方と一緒にクラスや学年を作っていく体験、経験が一番の研修だ。
話は変わるが子供との信頼関係を作るといっても、多忙すぎる新任の姿が浮かぶ。だが、それ以上に教師全体の熱意の低下や疲弊を感じる。
教員は近年、研修や会議の多さ、教育内容の複雑化に自分を取り戻す時間を失っている。
次から次に来る来る要請をこなすのに精一杯で、子供たちや他の教員と会話するなどの余裕はなくなった。
まず、会議のない日をさがすのが大変だ。役をもっている教員なら会議漬けになって、生徒が質問や相談にきても「今日、会議があるので…」と濁すことが多くなる。
それでも合間を縫って生徒とコンタクトを取ろうとすると、昼休みや休み時間などを使うが、せわしなく時間に押されるようにしての会話になる。時には、忙しくて無自覚に、嫌な顔で生徒と会話する羽目になる。
これに新任は新任研修などが入ってくるのだから大変だ。
校長が良かれと思い、新たな企画を校内で始める度に、一般教員の仕事は多くなる。
だが、一般教員は仕事が増えることを歓迎するはずがない。
だから、校長は引き受けてくれる教員を探しだす。
いったん引き受けるとその教員にはさらに仕事が回ってくる。逆に言うと、絶対引き受けない教員は何年学校にいようが校長からほとんど声がかからないので楽をし続ける。
職員の間で仕事量の軽重の差が広がる。5時にかえる教師。10時まで仕事に追われる教師。
部活動で時間がつぶれる教師。
部活動などほっとくか、しない教師。
子供たちのためと頑張る教師ほどしんどくなる。
能力のある中心的存在の教師たちの疲弊が始まる。若手教員たちともコミュニケーションの時間もつくれない。若手が育たない、という悪循環の始まりにもなる。
市立学校長の公募に488人 大阪
大阪市教委は5日、平成26年度に新たに着任させる市立学校(小中高)の校長公募(定員69人)の応募者が488人で確定したと発表した。内訳は外部人材が143人、市職員が345人。昨年度の応募者数1290人から大幅に減った。
締め切り日だった6月24日の消印まで有効だったため、同月27日に発表した速報値より2人増えた。昨年度の公募では合格者63人のうち外部人材は11人にとどまったため、今回は募集枠を分け、35人を外部、34人を市職員とした。
産経新聞
校長はかなりのプレッシャーのかかるポジションだ。上からの要請がきつい。だから校長も下への要請がきつくなる。そして末端の我々のような平凡な教師たちは、疲弊する。
校長は学校全体のどこを修正し、どのように人事を進めたらよいかはっきりと見えていない。見えているのは一般教員のほうだ。つまり裸の王様状態だ。どの人物が力をもち、彼をどこのポジションにおけば力を発揮するのかを誤って人事してしまっている。
たいがい、こいつはうっとうしいと思うやつの話が一番校長にとって真実に近い事を語っているかもしれない。だが、こういうやつは干されている。
教育実習生はよく6月に来るが、今年の実習生は生意気と言うか、話を聞かないというか、どこから来るのかわからない裏打ちのない自信を持っているというのか、今日は生徒の扱いについてルールを守らせるということについて言い争った場面があった。
「何言うとんねんこいつ」と思いながら、後の処理はこっちがした。
一人の生徒とここまで関わるのにどれほど親とけんかもし、何度も家に行き、電話もし、関係をつないできたか。その信頼関係を一瞬で壊わされそうになったと思った。
実習生よ、自信持つのもええけど、畏敬の念も持てよ。この年寄りにさえ。まあ若いのには馬鹿に見えるんだろうな、この年では。
しかし、腹がったってみたものの…、実はよく考えてみると、自分も若い時、年上の教師を馬鹿にしていたなと思う。
授業中グランドに出て勝手に遊んでいる生徒らを見て、「なんで注意せえへんねんおまえら」とよく先輩教師に腹を立て見下していた。
その裏には自分に自信があったからだと思う。だが、今は自分に出来ることはほんとうに少なく、助けられて今があるので、周りの教師に感謝できるようになった。昔とはちがうなぁ。
ただ、よく考えてみると、なにもしない、言わないひ弱な実習生よりはましかなと思う。
そこの若いのよ、年寄りに対しても人権意識や。
本当に体力的に限界かなというしんどさが続く。
朝、体が動かない。休もうかと真剣に電話を取るとこまで行く。
精神的には、なにか威圧され、圧迫を受けている感じがある。
自分たちで作る学校というより、怒鳴られやらされている仕事のような。
すべては自分次第だとわかっていても、
現実は周りからのプレッシャーでいっぱいで、
恐れと不安に負けそうになる。
急に挫折する生徒。乱れがとまらない生徒。
ラインがらみでトラブり、いがみ合う生徒たち。
自分の子供が迷惑をかけていることを理解できない親。
逆切れする親。
教師の尻を叩けば恫喝すれば動くと思っている管理職。
ビジョンをもたない管理職。
ただ、命令に従うだけの
あきらめの中にある犬のような我々。
しかし、このような中にもきらっと光るものがある。
まだ何かやれると考えて頑張り続けようとする若き教師たちの姿。
だから今日もふりしぼって職場へいく。
あいつら希望をもっている。
エネルギィーもらえる。
そして子どもたちの笑顔だ。
これに元気をもらうことができるから学校へ行く。
「よっしやー」
1958年4月、水戸地方法務局は、茨城県立上郷高等学校での丸刈り校則改正運動で退学者が出た事件について「長髪禁止は人権侵害のおそれがある」と、県教育庁に勧告した。
1989年、「丸刈り校則たった一人の反乱」刊行。愛知県岡崎市で、丸刈り校則を拒否し、一人で長髪通学を続ける中学生と両親の闘いの記録が単行本となる。岡崎市では、1990年前半には、丸刈り校則全廃を達成。
1997年2月22日、最高裁判所は小野市在住の小学生および代理人の「小野市立小野中学校の丸刈り校則無効確認」の訴えを棄却した高裁判決を支持して、上告棄却とした。ただし高裁判決理由で「丸刈り校則は単なる心得であって守る法的義務はない」と確認されている。(小野中学校丸刈り校則事件)
このように、校則は最終的に保護者への協力依頼程度である。もちろん法的根拠はない。
どうやって保護者に理解していただくか、ここに教師のコミュニケーション力が問われる。だが、それは易しいものではない。なぜなら今は多様な考えを持つ保護者が多数いるからだ。
教師に学校の校則を100パーセント守らせることを強要する時代は終わった。守らせるなら、校則を法に準じるものに変える必要がある。
それが不可能ならば、学校は一つの決断をすべきだ。
「校則撤廃」だ。
時代は変革している。我々が中学生の時、携帯電話もない、髪の毛を染めるのはおばさん連中だけ、ピアスなんて考えたこともない…。現在これらを阻止し続けるだけでも昔の教師よりも莫大なエネルギィーが今の教師にかかっている。本来業務の柱である授業研究にかける時間は割かれ続けられている。
神経をすり減らし、本来業務まで捨てて、校則を守らせることがよいのか疑問だ。
いらない校則は即撤廃していく決断が必要だ。例えば、靴下はどのような靴下でもよい。いちいち白のワンポイントまではよいとか、黒、紺だけ可、とか決めない。それを指導するのに何時間もかけ、保護者に電話してお願いし、学校で履き替えさせる。この間に、授業研究がいくらできるだろう。
指導しながら、靴下の色なんてどうでもよいことのように思えてくる。どうでもよいことのためにエネルギィーを注ぐ空しさを体験しているのは私だけではないだろう。
我々の世界、校則をしっかり守らせる教師は力のある教師、という暗黙のなにかがある。だから、力のある教師として認められるために頑張るという構図がある。
だから、どうしたら校則を守らせられるかという議論はあっても、なんのために校則を守らせ、どうして校則は必要なのかという議論は起こりにくい。我々に「変革」という風土がないのだ。捨てるべきもの捨てられるべきものは捨てていく。すべて抱え込んでいる今の学校に必要不可欠の決断だ。
あとの10パーセントの生徒に校則を守らせることができるとすれば、教師側にかなり高いコミュニケーション能力が必要となる。それは現地点では不可能だ。
だから、校則を100パーセント守らせるのなら、法的根拠を持った権力に準じるものが必要だ。
ただ、100パーセントに近い形で校則を守らせている学校はある。それは教師の力もあるが、その地域がしっかりしているからだ。
まず、校則を守らせようとすると、保護者の理解だ必要だが、それが1番難しい。
「○○いくらい自由やろう」
「この髪の毛の赤いのは生まれつきや」
「変形ズボンは私がプレゼントで買ったんや、文句あんのか」
「ピアスの穴は私があけてん」
「校則守らせるなんて人権侵害や」など、ありとあらゆる様々な御意見をクリアーして初めて100パーセントになる。不可能に近い。
だがもっと嫌なのは、数人が守らないことにより、その何倍もの生徒が守らなくなることだ。生徒からは「あの子がやっててなんで私ばっかり言われなあかんの?」保護者からは「うちの子だけじゃないでしょう」、という主体性のない言葉を浴びせられる。
こうならないうちに何とか解決できれば、学校に平和が訪れる。
権力に準じるものがあれば、さまざまなことが解決される。授業妨害もそうだ。公立中学校では一部の生徒がやりたい放題な場所になることがある。だから大きないじめも発生しやすい土壌が生まれる。
多くのまじめな普通にやっている生徒たちの学習権を守ることが今まで弱かった。
公立中学校を普通に戻すには、法的根拠をもった権力に準じるものを与えることが必要だ。