公立学校の真実
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間違った答えから思考を深めることができるが、教科書通りの答えからは思考を深めることは難しい。
教科書に書いてあるから正解で終わる授業は、個性派にとっては退屈な授業だ。
例えば、水をビーカーで熱すると中で対流が起こる。そこへ小さな紙を放り込むと上へ下へと回り始める。そこで教師は「なぜ紙は上へ下へとビーカーの中を回っているのか」と問う。
A君は、「それは対流というものです」と答えた。
B君は「下から泡が出ています、その泡によって上へ押し上げられ、上へあがると泡が消え、また下に落ちていきます」と答えた。
私はB君の答えの方がおもしろいし、それを本当かどうか深めることができ、それこそ科学と思う。
正解を答える子どもは素晴らしいとされる。
教科書に沿わない答えを発言する子どもはいくら面白い発想を持っていても、授業中に相手にされないし評価されない。残念だ。
しかし、教師を責めることは出来ない。
教師自身も教科書通りに育っているのだから。
そして、教師にも忙しくて考える余裕がない。
中1の教科書をほんの数ページ進んだところに、「-6cm長いを、ーを使わないで表せ」という問題が出てきます。日常的に「―6cm長い」という言葉を使わない彼らにとって、理解しがたい問題です。
教科書を数ページ進んだところで、すでに混乱が待ち受けているのです。
私は、こんなの飛ばしても良いと思います。
なぜなら、余計に混乱し、今まで分かっていたことがらまでも、混乱させてしまうからです。
しかし、教員は、中1の教科書の初めに出てくることがらも理解できないと、残りの多くのことがらはきっと理解できないと考え、時間をかけて懸命に教えます。
中1の数学の「正と負の数」の計算で、「負の数を引く」があります。この教え方や考え方は、様々な視点からアプローチされています。それほど難しいのです。
数直線で教えると一番理解しやすいかもしれません。
しかし、(-4)-(-9) のような問題が出てくる度に数直線で計算させるのは、現実的ではありません。
パターン化すれば計算しやすく、正解を出してくれると思います。
しかし、これも分からなければ飛ばしてもよいと思います。
逆に、何を理解させておけば良いのか、ということです。
正と負の数で必要なのは5-9 -2-7 -8+4 -2+5です。
さらに、小学校で習う分数の通分と、九九を始め、3桁と2桁の掛け算や割り算ができていれば、文字式や方程式の計算部分は機械的にでも理解させることが出来ます。
90点台、80点台がごろごろいるのに、70点台、60点台は少なく、次に多くなるのは10点台と一桁だ。
なんとも気味悪い。
私の授業は一体何だったのか。だれのための授業だったのだろうと落ち込む。下10人ほどを無視した授業といえる。しかし、この子らを教えるとなると相当低いレベルに落とさねばならない。
次の授業を悩む。
下の子らは私の授業にじっと耐えていたのだ。静かに授業を聞いたふりをして中学校を卒業していくのか。何ともならんのか。それで良しとするのか。
習熟度別授業。予算を付けて習熟度別授業を展開している市町村が多いが、成功していないところが多い。原因はレベル別に分けても、内容が同じだからだ。レベル別に分ければ内容も別にすべきだ。テストも別でよい。もちろん評価は受けたテストでの到達度でよいのではないか。
九九さえもしっかりしていないのに応用なんて教えてもらう方が苦痛だ。例えば、習熟度別授業を九九からしてもよい。評価も九九が出来れば高く評価してやればよい。それが本当の絶対評価ではないだろうか。支援学校では評価はそうしている。その子に合った目標を立てて評価をしている。これが一般の学校では許されていない。
その子に合った教材で授業を展開すること、これは教える側の基本ではないだろうか。残念だが自分は出来ていない。
ある私立高校ではアルファベットが書けるかを1年1学期中間テストに出している。生徒の実態に合わせているのだ。高校では通信制や単位制などタケノコのように出没し始め、生徒の実態に合わせて自由に教育活動を行っている。
それが許されて、中学校では実態に合わせることは許されていない。教科書を進度表の通りに進むことだけは許されている。保護者から文句が出ないように。
今、中学校を救うには既成概念を脱した考え方で教育を進める必要がある。
一律主義には無理が出ていることを教師は堂々と訴えるべき時が来た。
様々なことが浮かんだが、今日は大阪の道徳教育に関して述べる。
大阪の道徳教育は元からゆがんでいる。なぜなら、ほとんどの学校は道徳教育部という位置づけから研究・研鑽がなされていないからだ。
例えば、校内研究をするにしても、普通、主催は道徳教育部であるが、大阪ではほとんどが人権教育部が担う。人権教育、元は同和教育である。
これでは真の研究に至らない。
大阪はまず、他府県のしっかりした道徳研究を模倣することから始めるべきだ。人権教育から発する道徳教育ではなく、人間の内面をありのままに見つめさせ、崇高な人間性に目覚めさせる道徳教育を大阪でも展開する必要がある。
校内だけではない、府や教育委員会レベルで道徳教育は人権教育なのだ。
例えば…先日1月31日、摂津市で小中学校の道徳教育推進教師を対象に行われた研究会の講師は、貝塚市教育委員会 学校人権教育課 参事だった。なぜ学校人権教育課参事が道徳教育の研究会の講師なのか分からない。
他府県ではありえないことなのだが、大阪の現場でこの異常さを叫んでもかき消されるらしい。府レベルでこれだからだ。
生徒はよく歌を聞いたり歌う、修学旅行などでバスに乗ればカセットテープに録音してきた歌を聞き口ずさむ。中にはかなり上手い生徒もいる。修学旅行のバスで英語の勉強や数学の問題を解くなんて聞いたことはない。
下敷きをみればAKB48の写真のもので数名の男子がそれをかこんで目が本気になっている。かわいいというのもあるのだろうが音楽が生活になじんでいる感じがした。音楽を好きになればきっと他の勉強も向上心が湧くはずと信じる。(理由はない)
音楽を本気で好きにならせたい。それには本物と出会わせるべきだ。学校に一流のアーティストを呼ぶ。学校には残念だが3,4流しか来ない。一番の理由はお金だ、しかしもっと本当の理由は我々に呼ぶ情熱がないことだ。生徒たちに本物を教えることこそ教育だ。
どこかの番組で、足洗学園大学にに卒業生の平原綾香が来て一緒に合唱していた特集があった。うらやましかった。活躍している先輩の指導を受けてどれほどの励みになっただろうかと思う。
公立中学校にはそういう一流は来ないのか。機会があればそういう場を持ちたい。
付け加えるが、私には1流アーティストを呼ぶための案がある。それは、生徒会で「私たちの学校にきて是非講演して欲しい」と熱を入れた手紙を送ることだ。100人位に贈る。その中にはきっと反応してくれるアーティストがいるはずだ。
このように考えるのは部活動で得たものなのだが、強い学校ほど謙虚であり、練習試合に応じてくれるという原則を発見したからだ。詳しくは部活動のところで書いているが、実感したことだ。遠慮しているのは我々の方であった。
だが、これを実際に校内で提案することに何かしらの迷いと遠慮があるのだ。
この授業だけを見ると、こうすればどの生徒も理解していくとうなずく人は多い。
しかし、大きな落とし穴がある。2つのグループの1年間の進度が同じだということだ。習熟できにくい生徒には習熟させるための時間が3倍必要だ。
なぜ習熟度別授業をするのか、という原点にかえって考えてみたい。40人足らずの生徒の中にはすでに次の学年のレベルまで進んでいる者もいる。反面、特別支援教育なみの授業を必要とする生徒もいる。だから習熟度別に分けるのである。
理解力が下位のものは、分かりやすく教えても定着させるのにかなりの時間がかかる。今日理解したとしても、明日になれば半分以上忘れていることも多い。まさに「七転び八起」状態なのだ。だから、授業進度は上位のものと同じであってはいけない。
どの生徒も授業で、分かったという歓びと先人が残した智のすごさを体験してもらいたい。そのためには習熟度別授業の原点に返り、2つないし3つに分けたグループの進度や内容を個別にする必要がある。そのためには評価テストの問題も別になる。もちろん評価方法も大胆に改革する必要があるのだが…。
道徳教育は同和教育や人権教育と別に総括するべきだ。
こう書くとどこの県かは分かると思うが、本当に他府県からみれば幼稚な教育を堂々としている。
それと人権教育と言えば反戦平和教育をすれば終りと勘違いしている管理職以下同僚を憐れむ。まともではない。人権教育は人権教育だ。日常の小さな出来事から社会の出来事など人の痛みや自分の痛みを知り人間の本当の願いに気づかせる教育だ。心の内を見つめる教育だ。社会運動ではない。
道徳授業はなぜ行われないのか。不思議だ。市民は中学校で道徳教育つまり道徳の時間が週1時間ありながら道徳授業が行われていないのをどう思っているのか。市民は教師の様々な指導にたいして目を光らせるが、道徳授業がなされていないことには関心がない。
日本のマスコミや国民が、政治家の政策論争に目をくれず、政局にのみ興味を追いかけるのに全くよく似ている。
教室を移動し他の教室を使ったり、教室のスペースが空くことによる弊害が出る。
教室に空席が出来るので、決まった席に座らないようになる。
他の教室も使用する場合があるが、他人の机の中を触ったりする。
授業中忘れ物を自分の教室に取りに行ったりする。
同じクラスを分けるので、教える教師が複数となり、比較が生まれやりにくいという問題もある。
このような問題点が多くなり、教科指導より生徒指導でエネルギーが費やされる。
特に、習熟度別の下の方は悲惨だ。生徒指導を要する生徒が集まり、数学どころではなくなる。
だから、加配をもらっても薄めに使い、教員1人当たりの授業数を少なくする。
この実態を教育委員会は知っているが外から指摘されない限り指導はない。
少人数など教師はまずやる気はない。
しんどくなるのがいやだからだ。授業が多くなるのが嫌だからだ。
確かに中学校は一生懸命にやればやるほど教師は仕事が増える。習熟度や少人数授業をまともにすれば仕事が増えて何かを捨てなければならない。
理想を現実にするためには、既存の枠組みをはずして進めなければ成功しない。
今までの枠組みを持って新しいことを進めるには限界がある。
教員の授業時間割にもそれはある。
話は変わるが、上から習熟度をせよと予算が出て教員配置する。これは本当に実態と合っていない。
教師の授業は1たす1は2にはならない。
例えば、チームティーチングだ。2人で組んで授業をすれば2倍の効果があるのかと言えば、あるわけがないと答える。なぜなら教室に2人いてもほとんどしゃべっているのは1人だからだ。そのしゃべっている時に他の教師が補助を行うわけだが、そんなうまくいかない。気休め程度のものと判断する。ただ、ここで学校の荒れの程度や学力の程度によって効果はかなり違ってくる。荒れている学校はあいている教師がうるさい生徒を静めたり、出て行くのを止めたりすることにより授業をスムーズにさせることが出来る。普通の学校では静かに聞いているときに、教師が歩き回ったり、生徒に話しかけたりすると教師が授業の邪魔になる。
コンビを組み一緒にやっていくのも大変だ。教師は独自の教え方やスタイルを持っているからだ。逆に話し合いによってそのスタイルを変えていくと実にやりにくい。教授力が半減する。やはり授業は1人で自分のスタイルでやる方がやりやすい。
習熟度や少人数はかなり教育委員会が推進しているが、実際形だけになっているところも多い。あるいは委員会にはやっていると報告してやっていないところもある。私は教師にやる気がないなら習熟別は辞めた方が良いと信じる。やる気がないのにやっても成功しないからだ。やる気があってはじめても成功は難しい。委員会の人はやらせることに必至で、現場の実態は見ていない。例えば実施する教室がないのに小人数をさせるとかだ。
教師にやる気を起こさせるのはどうすればよいのか。上から押さえつけても、抜け道をつくってやらないか、やっても形だけにしてお茶を濁すかだ。
だから、教師側つまり現場側から提案させるとよい。また、学校の実態に応じた提案を積極的に委員会が受け付けるべきだ。お役所仕事で我々に関わられると教師はやる気をださない。
英語教育のあるべき姿を、上智大の吉田研作教授と立教大大学院の鳥飼玖美子教授に聞いた。
◇
≪鳥飼玖美子氏≫
■日本語の力をつけるのが先
●英語嫌い増やすのでは
--小学生に英語教育は必要か
「必要ない。小学生の間はしっかりと日本語で話す力をつける時期。幼いころに中途半端に英語を教えることで、むしろ英語嫌いになる子供が増える可能性があり、早期の英語教育導入は逆効果。私自身、小学校3年で私立小学校に転校し、英語の授業を初めて受けたが、先生の影響から英語が嫌いになった時期がある。これまでは中学校に入ってから初めて英語を習う子供たちがほとんどで、中学校の英語の先生にとっては“いかに夏休みまでに英語を嫌いにさせないか”が課題だった。小学校での英語教育の義務化は前倒しで中学生になる前から英語嫌いの子供を増やしてしまう危険性がある」
--幼いころからの英語教育は効果的ではない?「幼いころに海外で過ごした帰国子女の大学生たちは英語を話せる。しかし、子供の英語のレベルであることが多い。英会話ができることと仕事で英語を使いこなすこととはわけが違う。就職後にもっと英文法など基礎を学習すべきだったと反省する帰国子女は多い。つまり、文科省が進めようとしている英会話重視の教育方法は効果的でないことを示している」
--楽天、ユニクロなど英語を社内の公用語にする日本企業も出始め、幼いころからの英語教育の必要性が叫ばれているが
「例えば、会議などでは出席者の8割以上が日本人であれば日本語を使うのが自然だ。なぜ無理をして英語を使うのか。英語が得意な日本人も多いが、英語圏の母語話者に比べると完全ではない。日本語が母語なのだからそれは当然で、日本人がビジネスなどで英語を使うことは不利な立場となることを理解すべきだ。英語が公用語になって得をするのは英語圏の人間だけ。やはり重要なのは小学校のうちから日本語で論理的に話せる会話力を身に付けること。英語が使えなくても通訳をつければ問題ない。不完全な英語能力で会議に出る方が問題だ」
--日本人に英語は難しい?
「米国務省が英語から最も遠い言語が日本語という調査結果を出しているように、発音の違いなど難易度が高い言語と理解した上で英語教育の方法を考えるべきだ」
--望ましい英語教育とは「例えばインドは英語が公用語だが、発音はインドなまりが強く、米英などネーティブの英語とは明らかに違う。しかし、インド人は国際的な場でもこの独自の英語を通用させている。発音も完璧にという英語教育には無理がある。インドのように英語を手段と割り切った日本人向けの英語教育のカリキュラムを考案し、中学から教えるべきだ」(戸津井康之)
◇
≪吉田研作氏≫
■小学校で親しむ機会は必要
--小学校での「英語必修化」には、どんな効果が期待できるか
「一番は、英語や異文化に対する関心を育むこと。子供のうちから日本とは違う文化に触れれば、外国語への親しみも増す。中学校の教科で、小学校から学んでいないのは英語だけ。それが突然、中学で抽象的な文法などの知識から教えられれば、英語嫌いの生徒が増えるのも無理はない。企業訪問や動植物の飼育といった体験授業のように、小学校でも英語と親しむ機会はあっていい」
○話したい気持ち育む
--小学校の英語の授業は、どういった点に力を入れるべきか
「基本的に、単語や文法などの知識として英語を教えるべきではない。実際に英語でコミュニケーションを行い、何かをやり遂げるという成功体験を味わわせたい。経験をたくさん持たせることで、もっと外国語を使ってコミュニケーションしたいという気持ちを育てることが一番の目的だ」
--教師やALT(外国語指導助手)など、現場の課題は「きめ細かい教員研修が必要だ。教師自身の英語力や指導法、教材の活用法、ALTとのチームティーチング(複数の教師が協力し授業を行うこと)など、いろんな面で課題が多い。小・中の連携も重要で、双方が互いの現場や学習状況を理解する必要がある。文部科学省や各自治体が、もっとリーダーシップを発揮すべきだ」
--平成25年度からは高校英語の授業が英語でなされるが
「文科省も指摘しているが、日本語で説明した方がいい場合はあるだろう。最初から生徒に英語でディスカッション(討論)をさせるのは難しい。例えば、はじめは日本語で討論をし、発表は英語でやるという方法もある。そうすれば深みのあるディスカッションになり、英語力向上につながる」
--日本の英語教育は単語、文法偏重といわれることも多い
「確かにその傾向はある。もちろん単語や文法を学ぶことも必要だが、それ自体を目的化せず、知識はコミュニケーションのための手段という発想が大切。英語を学ぶ最終目標は、読み、書き、聞き、理解し、論理的に話す力をつけること。知識とコミュニケーションのバランスは肝要だ」
--世界で通用する英語力とは「今、英語は事実上の国際語で、世界中でさまざまな英語が飛び交っている。例えば日本人と韓国人が英語で話す際、互いが理解できるよう分かりやすい言葉を選ぶだろう。相手の力に合わせて自分の英語を調整できる能力が、国際語としての英語には必要。そのために、広い意味でのコミュニケーションを取り入れた教育がさらに求められる」(三品貴志)
◇
【プロフィル】鳥飼玖美子
とりかい・くみこ 立教大大学院異文化コミュニケーション研究科教授。昭和21年、東京都生まれ。上智大卒。アポロ11号の月面着陸の通訳で同時通訳者の存在を認識させた。著書に「『英語公用語』は何が問題か」(角川oneテーマ21)「危うし!小学校英語」(文春新書)など。
◇
【プロフィル】吉田研作
よしだ・けんさく 上智大外国語学部教授。昭和23年、京都市生まれ。63歳。上智大卒。同大大学院、米ミシガン大大学院修了。小学校での英語必修化を検討した中央教育審議会(文科相の諮問機関)外国語専門部会で専門委員を務めた。著書に「外国人とわかりあう英語」(ちくま新書)など。
道徳や学級活動や総合の時間は区別されていない場合がある。ましてや道徳の教科書を使って授業をするなどほとんどない。授業研究も道徳はめったにない。これが実態だ。
ただし、県や地域によって事なることを伝えておく。
私の赴任した学校では、道徳の時間に同和教育をしていたこともあった。今は人権教育と呼ばれているが、同じ内容だ。
では、それがどう生徒に影響していくのかを説明したい。
例えば、いじめはなぜ起きるのか。なぜ命を大切にするのか。こういう本質は道徳でなくては伝わらない。人権教育でもカバーできそうだが、道を外れるのだ。
人権教育は、ときとして差別を恨むという理念が潜む。これは同時に差別者を探し、差別者への徹底攻撃や社会批判へと心が傾く。これでは差別はなくならない。なぜなら、差別の原因を外に見つけそれを攻撃しているからだ。戦争と同じだ。
差別は、差別する心見つめ掴むことにより解消する。心を深く掘り下げる作業により、心がこだわりを解き放ち、差別する馬鹿らしさが見えてきて差別心が止まる。その作業が道徳だ。
道徳は、いじめや差別を本質から解き放つきっかけとなる大切なものだ。「差別はダメ」といくら大声で伝えてもなくならない。心が変わらねばいつか吹き出る。
こちらが自分をさらけ出した分、生徒たちも自分をさらけ出す。肌と肌の付き合いが始まる。これをやるために教師をやっているのだ。
道徳はこちらの価値観を押し付けるのではない。ソクラテスの産婆法そのものだ。つまり、解答は生徒の中にある、それを引き出す役目が教師だ。 生徒はすごい解答を持ちだす時もある。こいつらは分かっているのだ。
「先生の道徳は面白かったよ」と言ってくれる生徒も多い。教科よりのるからだろう。でも、失敗も多い。今風で言うと、「すべる」という奴だ。だから、教材研究もする。 道徳の教材はいたるところにある。本もあるが、番組のなかでも使えるものはたくさんある。録画だ。録画し忘れた時は、尖閣ではないが、ユーチュウブに載せてくれている時もある。
道徳授業こそ教師の醍醐味なのに、やらないのはもったいない。
都内の区立中学の男性教師(51)は、別の中学の同僚から、道徳の授業時間を「社会科の職場見学の準備に使った」と聞かされてあぜんとした経験がある。その中学では、職場見学をした後の礼状書きも道徳の時間を使っていた。
別の中学の同僚は、道徳の時間に居眠りをしたり、隠れて受験勉強したりする生徒がいても特に注意もしていなかった。
「道徳はほかの授業に比べて軽くみられていて、やってもやらなくてもいいと思っている先生がいる」
この男性教師はため息をついた。
(2007年12月26日 読売新聞)抜粋
道徳の授業をまともにやっている学校はごく少ない。なぜか同和校ではやらない。同和校以外の学校で比較的落ち着いている学校でやっているのを知っている。また、人権教育を道徳でやる時もある。つまり、道徳の時間は一応組んではあるが、中身は適当だ。総合と合わせて2時間続きにして、自由に使っているところもある。当然、教育委員会もしっているが、お咎めはない。これが現状だ。保護者も教科指導ほど文句は言わない。
道徳を研究している友達がいるが、今は管理職になって頑張っている。「豊かな心を育む」研究授業を繰り返し、研究会を自主的に持って若手を育てている。彼の研究は本物だ。
彼は、生徒の心を育むのは簡単ではないという。「教師自身も内界を深く見つめ、人間の本質を知らねば伝わらない。道徳の教科書を読んで、奇麗事を並べるのは出来たとしても、それでは生徒はまたかと、右の耳から左の耳へ流れていくだけだ」と力説した。
私は生徒に、一番大切な授業は「道徳」だという。しかし、これも道徳をまともにやれせてくれる学校での話だ。しないのに研究もできなければ、生徒にも伝えら得ない。
「少人数指導・習熟度別指導」の課題
「個に応じた指導と評価」を実現するために
―厳しく問われる創造的姿勢と指導力―
中部大学教授 梶田 正巳
一部抜粋
我々はなぜ「個に応じた」指導や評価の提案をいつも繰り返し語るのであろうか。
しかも,どの書き手も一斉指導の対極として取り上げていることが明らかになる。結局は,一斉指導を克服して「個に応じた」指導や評価を打ち立てることが語られている。
最近の話題では,「少人数学級」と「習熟度別指導」である。
筆者もいくつかの「少人数学級」を見たことがある。
しかし,そこで感じたことをおそれずにまとめると,日本の少人数学級は,「一斉指導の少人数化」ではないだろうか。
35,40人いるクラスの一斉指導を,20,15人の小クラスに絞っただけで,学習スタイルは基本的にまったく異なっていなかった。
教師には,自分の授業スケジュール・計画が先にあって,児童生徒をそれに適応させている。
しかしながら,毎日の授業において,教師がどの児童生徒の学習現状もしっかりと押えている,というのではない。
初めに当該学年のカリキュラムがあり,その消化を前提に,少人数の一斉指導を組み立てているのである。
結局,必然的に「個に応じる指導と評価」の幅が極めて制約され,日常的に学年を超えることは困難になっていた。
習熟度別指導も同様である。
学年ごとに決まっているカリキュラムや教科書という強い制約の中にあって,子どもの達成度でクラス分けし,時には生徒の関心・意欲を考慮にいれて指導クラスを編成し,一斉指導をしていた。
こうした習熟度クラスでは,どこまで「個に応じた」幅広い違いは認められるのだろうか。
結論を言えば,少人数指導,習熟度別指導という概念や現状にとらわれず,我々はもっと,一人ひとりの児童生徒を伸ばす「日本的モデル」を,ボトムアップに探らなければならない。
以上 抜粋終り
私はこの小論文を読み、強く興味を示した。ただ、やはり、大学人だ。現場での具体的なビジョンについては、我々の出番だ。
【習熟度別授業、効果出ない例も 文科省全国調査 朝日3/31 】
勉強の理解の程度に応じて子どもたちをグループ分けして教える「習熟度別少人数授業」。きめ細かな指導法として各地で導入されているが、勉強が進んでいない子の学力向上につながっていないケースが少なくないことが30日、文部科学省の調査結果でわかった。
習熟度別授業は各都道府県の3~9割の学校で導入されているが、専門家は「単にクラスを分ければいいというものではない。個々の状態に応じたていねいな指導が必要だ」と指摘している。
文科省は、小6、中3を対象に08年4月に実施した全国学力調査をもとに分析。
算数・数学の成績が下から4分の1だった子どもから、「全授業の4分の3以上で習熟度別少人数指導を受けた」グループと「習熟度別少人数指導を全く受けていない」グループを抽出し、問題をピックアップして正答率を比べた。
それによると、習熟度別指導を受けた子の方が、受けていない子より正答率が1ポイント以上高い問題が小学校で14問中5問、中学校では20問中4問あった。ただ、差は最大で3ポイントにとどまり、受けていない子の方が逆に正答率が高い問題も小学校で3問あった。 都道府県ごとにみると、小学校の算数で、習熟度別の実施校の方が正答率が1ポイント以上高い県が10ある一方で、非実施校の方が1ポイント以上高い県も5あり、それ以外はほとんど差がなかった。
浅沼茂・東京学芸大教授は「効果が出ている学校を見ると、低学力層
は10人くらいのグループにし、教材や教え方も変えている。子ど
も一人ひとりの性格に合わせて声のかけ方まで工夫している」
と指摘する。
文科省の担当者も「効果が出るかどうかは、結局、先生がどういう方法で教え
ているかによるのではないか」と言う。(葉山梢)
この文科省の担当の無責任な発言に情けなく思い、怒りが出るが、冷静に次を記す。
習熟度別授業の成功例と失敗例に出合った。成功するには理由がある。理由は上記の赤で書かれている部分と重なる。
失敗する最大の理由は次の2点だ。
①習熟下位層のグループに生活面の指導が困難な生徒が集まって、授業が出来ない。
②習熟下位層のグループも上位層のグループも、同じ教科書で、同じ進度で授業を行い、同じ評価テストをするため、下位層のグループの生徒に分かりやすい授業を提供できない。
言い方を変えれば、下位グループの生徒が本当に分からないところから学習が出来ない。
その解決策。
①を解決するのには、上記の赤の部分でもあるように、下位の層は超少人数にして、さらにティームティーチングを組む。
この時の二人目の教員は、どの教科の教員でもよい。教科指導ではなく、生徒指導という名目なら授業に入れる。
②を解決するには、失敗する理由の逆をする。
授業をグループ別に進ませ、テストはグループごとの問題で行う。
特に、下位層のグループは教科書を使う必要はなく、生徒が分からないところからプリント学習で始める。学年の内容を超軽重をつけて教え終える。
その時、通知表の評価が問題になるが、グループごとに絶対評価で行う。学年の最後に、同一問題で評価テストを行い、それを要録の学年の評価とする。ただし、3年生は私学受験の内申の問題もあるので、2学期に、同一問題で評価テストを行う。
中学校は義務教育であり、指導要領に沿って教えなければならない。しかし、現実を見てほしい。中学1年生でも九九が出来ない、卒業間近にあっても、分数が出来ない。この現実は何を意味しているのか。教育が実をとっていないということだ。
教育の実をとって成功している例がある。私学だ。ある高校では、一年生最初の英語の授業は、「アルファベットをかけるか?」から始まる。もちろん数学は正負の計算からだ。それでいて、地域から高い評価を受ける。公立底辺高校よりはるかに授業は静かで、学校が落ち着いているからだ。
公立中学校も生徒の事を思うなら、実をとるべきだ。教育に多様性があってもよい。特別支援学校が多様で自由な教育を展開している。実をとった教育だ。小、中学校も困難校になれば、特別支援学校の生徒の何百倍も手がかかる。自由で多様な教育は困難校にこそ許されるべきであり、必要だ。
調査は財団法人「一ツ橋文芸教育振興会」と「日本青少年研究所」が昨年夏から秋にかけて、日米中韓の高校生計約6200人を対象に実施した。
それによると、授業中に「いつもする」「ときどきする」態度として、「居眠り」を選んだ高校生は、日本が45・1%とワースト1位。ついで韓国(32・3%)、米国(20・8%)、中国(4・7%)の順。「積極的に発言する」のは米国(51・0%)、中国(46・2%)、韓国(16・3%)に対し、日本は14・3%にとどまった。
一方、平日に学校の授業と宿題以外に、まったく勉強しないと答えた高校生は日本は34・3%。米国(24・3%)、韓国(17・5%)、中国(6・8%)より割合が高かった。
進学校といっても上から下まである。公立高校の並みの進学校であれば、入塾せずともいける。公立の入試問題は、中学校の授業を理解していれば解けるからだ。
しかし、私学や国立のいわゆる東大・京大に数十人単位で合格させている超進学校や公立でも中高一貫校は、入塾して学ばないと行けない。入試問題が解けないからだ。
(ここで塾とは、超進学校に実績をもつ塾をいう)
超進学校の入試問題は、量が多いのと、難問が含まれているため、教科書を学習するだけの学校の授業では解けない。
解答を早く正確に導くパターンが必要になる。そのために次の定理や公式を使いこなす力がいる。
例えば数学の図形では、
角の二等分線、チェバ、メネラウス、スチュワード、中線定理。
三角形の内接円、外接円の半径を求める公式、ヘロンの公式なども使えるようにしたい。
空間でも、正四面体の体積=√2/12×1辺の3乗、まで覚えて試験場に臨みたい。
その他、円錐の側面の中心角=母線÷底面の半径×360°など、高速算出法もちろんのこと、様々な解法のコツをつかんでおく必要がある。
だから、関西圏では、灘、甲陽、教大付属、東大寺、洛南、洛星など、受験対策には塾が必要になる。
卒業式でもめる。式次第、国旗・国歌の扱い方、答辞や送辞の内容、証書を一人ひとりに渡すのか、代表だけか、式歌は何を歌う。
国歌や国旗でもめる学校がある。その論争は、生徒にとって重要ではない。
一番大切なのは答辞だ。なぜなら、主役である卒業生たちが、最後に伝える言葉だからだ。式は格調高いものでなければならない。しかし、形式にとらわれると、みんなの心の中心に共振しないまま終わる。
心の中心を射抜く答辞を毎年行っている学校がある。手作りだ。出来なかったこと、情けなかったこと、すべてあからさまに出す。だから、後輩たちに託す言葉も切実だ。
感謝も文面以上に、すでに式場の彼らの姿で分かる。
みんなの心の深くに、大切なものが刻印される卒業式をつくるのは我々だ。