公立学校の真実
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教員の質の向上を目的に今年4月に導入された教員免許更新制について、文部科学省の鈴木寛副大臣は14日、早ければ平成22年度を最後に廃止し、23年度から現役教員が教職大学院で学び「専門免許状」を取得する新しい研修制度へ移行する考えを示した。
免許更新制は導入からわずか2年で廃止される公算が大きい。
更新制の廃止は、同制度が「教育現場の負担になる」と批判してきた日教組の主張にも沿う政策。大学での教員養成課程も大学院2年を義務化し、6年制に延長する方針で、専門免許状取得のためのカリキュラムなどとともに、来年度中に制度の詳細を決める。
更新制は教員に10年ごとの免許更新を義務づけ、対象者は大学などで計30時間以上の講習を受講。不合格が続けば免許が失効する。
鈴木副大臣は同日開かれた政策会議後の会見で「講習の目的が不適格教員の排除か、教育力の向上なのか趣旨が不明確だ」と更新制を批判。
来年度は教員研修の趣旨を明確にした上で更新制を継続し、再来年度から新制度に移行した場合でも「受講実績を専門免許状の取得の際に単位換算するなど、配慮を行う」と明言した。
――産経新聞による――
昨日、がわが校の職員室でも免許更新制度の廃止が話題に上った。しかし、一瞬だった。
もう現場では、ゆとりから始まり、様々な上からの御通達のころころ変わることにはなれているから、話題にするだけ無駄…という空気が流れたように感じた。
そんなことを話題にするなら、目の前の生徒との対応や中間テストの採点をしてるほうがまし、と聞こえてきそうだった。
実は、私はもっと話題にしたかった。
現場の実態や本質的な論議抜きに誰かの考案によりすべてが瞬時に変わり、それに振り回されている現場は、もっと管理職も含めて教員たるもの全員が声を上げるべきことと思う。
それは組合、非組合の人間関係ない。
教員のほとんどがあのような講習で本当に教員の質が上がるとは思っていないはずだった。
しかたなく、夏休みの部活動の指導やそれこそ学力向上のための補習を後ろ髪をひかれながら置いて行かざるを得ないのが現状だった。
それでも教員は黙って3万ほど自腹を切って講習に出かけたのだ。
あれは何だったのか。
また、教員養成を6年制にし、教育実習を1年間させるという。大変革だ。
文科省はひとつ勘違いしている向きがある。教員は研修や講義で何かを与えれば質が向上すると。
確かにある程度は向上するだろうし、知識も詰め込める。
今、現場は本当は何を必要としているのかしっかり見てほしい。
人間力以外にない。
魅力だ。人間の器。これだ。
ある通信制連携校の設立者の方とお話しをする機会が最近あった。その方は迷っておられた。これで事業をやめるべきかと。通信制連携校は続かないからだ。生徒が集まらないという。そらそうだろうと思う。これだけ通信制連携校があれば、仕方ないであろう。宣伝力がある知名度の高い通信制連携校が生徒を集め生き残る。その方の学校は知名度は低い。しかし、誠実な方であるので、様々な次なる展開の仕事の話が舞い込んでいる。だが、やはり必要なるは資金だという。しかも、これだけの不況、私学に来にくいという。
そこで、通信制短大や大学の特修生制度の援助をしたらどうだろうと持ちかけたが、以外にも彼は特修生制度を知らなかった。このような人物が知らないとは、びっくりした。と同時に「これはまだいける」、つまり事業として使えると思った。私には肝心な資金はないけれど。
さて、私が知っているだけで、通信制連携校で、危機にあるところが3校もある。難しい問題だ。その中の一人の正教員のAさんは、勤務先の経営が危ない、しかも給与が超低いという理由で公立学校の採用試験を受けたのだ。1次で粉砕したが。なんと彼は有名国立大学の法学部出身だった。試験への準備をして、来年また受験するという。優秀な人材が専門学校や通信制連携校などから抜けていくのは事実であるようだ。
それは、それぞれの学校の講師たちの採用試験の結果を見て思うのである。
情熱のある講師は採用されていないじゃないのかな、と。
絶対必要だと思う講師の方は不合格、片手間にやっているとしか思えない方が合格。
この事実は何なのだろうか。
人物重視の採用に穴があるように思える。それは採点基準と採点する側の人間力にあると思う。
採点基準があるのはわかるが、情熱のある教師の気持ちや言動は採点基準外に放り出される現実があるのではないか。
例で示すと、論文で、!を使うということはあり得ないし、使えば試験では減点対象にもなりかねない。しかし人間どうしても、強調したい気持ちを抑えられない時がある。それは人々、目の前にいる生徒に魂からほとばしるように訴える時である。つまり!なのだ。
しかし、論文では!はありえない。
これを無視すると減点。
情熱をそのまま出しきってしまうと、面接では ! と同じ運命になるのかもしれない。
面接の採点基準はどこに出しても文句のつけようのないお役所基準ものであればあるほど、!は必ず撥ねられるのだ。
次に本当に面接官は人間をみる見識と立場があるのかだ。失礼な言い方をしてしまったが、実際委員会や管理職はイエスマンを好む。言い方は変だが、どうしても学校社会は上意下達なのだ。それは法律にも示してあるし、現にそうなってきている。例えば東京都などは職員会議で多数決はもちろんのこと、教職員の意思を問うための挙手を禁じている。それに意を唱えた校長がいたが粛清されたと聞いた。
そういう中で育成された管理職や委員会の方が面接官であれば、本当に情熱あふれる教員を高く評するか疑問だ。
組織からはみ出すぐらいの元気があるやつでなく、無難にそして冷静に問題を処理でき、かつどれだけ文部省や県が出している通達に精通している人間か、それを優先するだろう。
一見教員に必要な資質と思われるかもしれないが、それは管理に必要であって、目の前の生徒と対峙する教員には別ものが必要だ。
何度も言うようだが、私は県の困難校、だれも嫌がる誰でも知っているある学校で担任をしていた。
やはり想像を絶する昼夜を問わず指導に走り回る厳しい現実の毎日、学校の規則を盾に生徒を指導することはもはやできない。学校の規則どころか日本の法律をも学校の中で毎日守られていないのだから。
しかし、不思議なことに、卒業してみてわかったことだが、誠心誠意、身を粉にしてきたことは通じていた。それは彼らが開いてくれた同窓会の席でわかった。
その誠心誠意とは、管理職に知れると都合が悪いこともある。ここで書くのは憚るが、管理職も委員会に知れると都合が悪く、新聞沙汰になることもせざるを得ないことで不登校に関する困難を乗り切ってきたことを私も見てきた。
話は本題からさらにそれるが、よく採用試験の質問の中に「居眠りしている生徒をどう指導しますか」というのがあるが、笑いが出てくる。
まあ、あの時の教職員が答えるなら、一応声かけはするが寝ているならそれ以上しない。3時間目に入ってまだ寝ているなら、3人の教師で担いで邪魔にならない教室に移動させて寝かす。教師のメンツをかけて昼食前には厳しく起こすが、それが時々暴力や、他の生徒への迷惑や校舎破壊につながる。
「@えっ」と思われるかもしれないが事実である。なぜならば、彼らは机の上では寝ない。教室の後ろの床でジャージを枕に寝るのだ。しかも、爆睡だ。その中で授業は進められる。
彼らは夜に暴走しとりあえず朝きて学校で寝るのだ。昼食の時になっても起きてこない時もある。終学活が終わっても寝ているときがあった。
これだけ書けば、教員は何をしているのだ。どういう指導をしていた。保護者対応は?と責められそうになるが、事実を書く。
しかし、その時はそれが精一杯の対応だった。裏を返せば一日終えるのに必死で、他の生徒を守るのに必死だった。
もし、あの学校の教員が正直に面接を受けるとなると、校長以下全員不合格だろうと思う。
話はだいぶんそれたが、教育への情熱は面接官には見えない。そこで教員採用試験に対する疑問が湧くのだ。
しかも、今や、面接の攻略本が出ていてそれを暗記したもの勝ちという事実があるのには、正直現場の人間としては教員採用に失望感を禁じえない。
もっとはみ出し野郎がいてもいいではないか。
長年教員として身を粉にして頑張ってきた人ほど、この人物評価の教員採用試験の質問に対してまじめに答えれば不合格の回答になるだろう。
最近職員もおとなしくなって、学校も面白くないとおもったら、この人物重視、いや人物規制の教員採用試験のせいだな。
昨日、授業の初めに、生徒たちに「秋風が吹くと…」のあとは何が続く?と聞いてみた。
ある女生徒の答えは「さみしい」だった。
理由は?と尋ねると、落ち葉が落ちて、クラブでは3年生がいなくなり、何かさみしいの、と言っていた。
確かに、春は桜散るだが、春は何か始りという感がある。しかし、秋は何か終りに近づいていく様子が見える。
秋の休みの朝、私の人生はいったい何だったんだろう。
こんな、思いを持ちながら今、ジュピターを聞いている。平原綾香だ。
歌詞の中に、「愛を学ぶために孤独があるのなら、意味のないことなど起こりはしない」と一見意味のわからな
い歌詞があるが、これは考えれば考えるほど深い意味があるように思う。
愛を学ぶために人間は生きていることを前提にした歌詞と思える。
しかし、人生には想像を絶する試練や乗り越えそうにもない壁が待っている。途方に暮れ、さみしさに襲われ、
孤独に耐えなければならなくなる。しかしこの歌詞は、その試練は意味がないものではない!と訴えているの
だ。
人間の魂を励ましているように思える。人間よ、頑張れ。目的地にたどり着くまで。
組合活動の活発な職場。
組合活動なんて化石化した職場。
上しか見ない、教育者を放棄した管理職がいる職場。
個性豊かな人間がいてとても面白い職場。
セクハラがまかり通っている職場。
生徒は楽だが、教師間が異様に陰気な対立がある職場。
何もかも楽だが、明らかに腐っている職場。
年寄りがすでに死に、若手が自己流自己満足を喫している職場。
地獄のような厳しい職場。
私はどの職場に行きたいか。
楽な職場はもういい、地獄でもいい、教育を放棄しない職場がいい。
しかし、言うは易し、行うは難しである。
やはり地獄は地獄。
地獄に行って、楽な職場に行くと、そこの教職員の言動に無性に腹が立ってくるときがある。
たぶん心の中で、「おまえら甘えるな」とつぶやいているんだろう。
まあいい、そんなことは早く忘れるべきだ。
過去は過去、今をしっかり生きよう。
よく職場で過去の栄光を唾をとばして周りに喋りまくる輩がいる。
そんな人ほど、今が弱い。
私は今に強い教師になろう。
優秀な教員の選考・確保
…
特に、正規教員と同様に教壇に立っている臨時的任用教員や非常勤講師、また、他道府県で現職の教員として一定の勤務実績を持っているものなどは、その実践力を活用していくことが、極めて確実かつ重要な対応となってくる。
現在、都の公立学校においては、産休・育休代替教員として任用されている臨時的任用教員や非常勤講師が、限られた任用期間ではあるが、教育活動に携わっている。この中には、優れた業績により学校長等から高い評価を受け、正規教員としての採用を望まれる者もいる。
しかし、現在の選考方法では、任用期間や任用時数に一定の勤務実績を持った臨時的任用教員と非常勤講師を対象に、一次試験の択一試験のみ免除している状況であり、このような教職経験・実績を採用選考に生かす工夫は充分であるとは言いがたい。
そこで、実際に学校現場で活動している様々な人材の実践力や教師としての適性を評価し、正規教員として採用することができるシステムの確立が必要となってくる。
さらに、現在でも実施しているが、豊富な社会経験に裏打ちされた、実践的指導力の発揮が期待できる社会人枠の拡大についても考慮する必要がある。
また、教員としての意欲、情熱、適性や資質を備えた優秀な人材を確保するために、従来から人物重視の観点に立ち、個人面接では予め準備してきた学習指導案による模擬授業を盛り込むとともに、対人関係や協調性を見極める集団活動面接では、民間の人事担当管理職を面接委員に登用するなど、多面的かつ多角的な面接方法による選考を実施している。
しかし、受験者が受験対策を積んでいる傾向があり、面接時の回答がパターン化されてしまい、差が付きにくくなっていることや、面接における評価方法・観点がわかりにくいという声が面接委員から寄せられている。
このような状況で、いかに教員としての適性を見極める選考を実施できるかが人材の確保に当たっての課題となっている。
以上
なるほどよく分かる。 面接や場面指導の攻略本的なものを徹底して学べば十分受け応え出来る。
私もその手の本を手に取り調べてみた。そして受験生に聞いてみたところ。7割程度同じ問題が出ていたというではないか。
これでは攻略力を測ることは出来たとしても、人間性、人間味を観ることは難しい状況だろう。
つまり受験技術の長けた人を採用することにもなる。
その方面の人材も確かに必要だが、特に小中は人間味あり、だろう。
それを証明しているのが、期限付き講師の活躍と採用状況だ。すばらしい人材が採用試験に通らない。
本人の努力不足もあるだろうが、こういうのを目の前の事実として知っている。部活動で講師の先生の熱心な指導の結果、上位の大会に出場することになった。当然、引率者として、子供たちからも絶大な信頼を置いているその講師の先生が必要だった、その先生は採用試験と日程が重なったので迷ったが、結局大会引率を選択した。
これは本人の判断に任せるべきことではあるが、私はその先生をよく知っていたので、その先生なら子供たちを選択したこともうなずける。愛情豊かで、非常に指導力のある人だった。
有能な講師の採用をどのようにシステム化するか。人材確保という点で大きな課題である。
産経新聞に次のような文面があったので紹介し私見を述べたい。
私も教育困難校にいたので分かるが下の文面通りであると思う。
早く国民がこの現状を知って、日本全体で解決しなければますます子供たちの未来はひどくなる。子供たちの未来が荒めば、ますます日本の未来社会は希望がなくなる。
子供たちの現状を、日々神経をすり減らし疲弊した教員だけに任せておいていいのだろうか。
解決策はあるのだろうか。
ある。
人間の可能性を信じることだ。
人間はただの肉の塊ではない。人間は可能性を秘めた強き存在。
底辺層の子供だからこそ、できることがあると私は信じる。
しかし、それだけ傷んだ底辺層の学校の生徒の可能性を引き出すには斬新的な考えとシステムが必要なはず。
一律に文科省の示す指導要領に沿った方針や一律な教員配置ではなく、(そこは文科省や教育委員会も理解していただかないといけないが)困難校に必要な人的、物的両面の教育環境の整備が必要なのだ。
下の講師の…
「この学校で1時間授業するより前の学校(進学校)で10日授業するほうが楽だ」
の話にあるように学校間格差は現実だ。
以前非常に楽な優秀な学校にいたことがある。
8クラス280名もの修学旅行生を引率するのに14名の教員が引率したが、はっきりいって必要ない。声の大きな教員4名ほどいれば十分と思われた。生徒が自主的に修学し、問題行動は取るに足らない小さな喧嘩やだらしなさだ。指導はその場で済む。
こんなことを言えば新聞沙汰になるかも知れぬが。
当時主任は、昼間からワインを楽しんでいた。その主任も今はとある小学校の校長先生である。
私も修学旅行の指導と言うより、旅行気分で、プレッシャーはなくとても楽しかった。
しかし、困難校の修学旅行引率は一転して戦場と化す。
修学旅行一週間前からどのクラスの担任もプレッシャーの下、課題を抱える生徒の準備や事前指導に時間を割く。
家庭訪問を繰り返し、親に指導内容を理解してらう。本人にはなんども髪の毛を黒に戻すよう、パーマを取るよう、服装を正しいものにするよう、ピアスを外すよう、タバコを持っていかぬよう、ひいたりついたりの深夜に及ぶ指導の毎日が続く。当然、土、日クラブ指導、教科指導も並行して進む。
そして修学旅行は地獄。以前荒れた生徒の暴力で救急車でおとなしい生徒が運ばれたこともあった。
帰ってからも指導で遅くまで家庭訪問、後日にも指導が残るという現実だった。
少し、現状に力を入れすぎた感があるが、本当のことだ。
だから、こんな学校には教員を特別支援並みに配置すべきなのだ。前から発信しているが、特別支援の教員の給与を一般校並みにして余剰金を困難校に回せばこの問題はすんなり解決できる。
私は断わっておくが困難校は好きだ。
今、わりと楽な学校にいるが、来年困難校に行きたいくらいだ。
理由は、上記のごとく、生徒に可能性があるからだ。以前の学校で一端を実感した。
【風】「教育困難校」知って
《現在の生徒たちは、70代の元教師の方が勤めていた時代、40代の父親が学校に行っていたころの生徒とは、まったく別の人類といえるほど変化しています》
先週の「風」では、教員の力不足を批判する声をいくつか紹介したが、これに対し、「現場より」と題した反論のファクスが寄せられた。
大阪府内の「教育困難校」に勤務しているという高校教師からである。
《授業に集中したり、苦手なことやしんどいことを我慢してやりとげることができない子供が多すぎます。教員としてどんな経験を積んでいてもまったく役に立たない。講師で進学校から来られた方が言いました。この学校で1時間授業するより前の学校で10日授業するほうが楽だと》
この教師は、学校が荒れる背景には家庭の教育力低下があるとしたうえで、《教育困難校で起こっていることを世間に広く知ってもらい、日本中の大人が協力して子供たちの教育、しつけに取り組まないとおそろしいことになる》と訴える。
先生に過度のストレスがかかり、学力向上どころではないという状況は、義務教育でもみられるようだ。小6の娘を持つ大阪市内の40代の母親からのメール。
《あるクラスの担任がストレスで登校できなくなったらしい。そのクラスの子供の顔ぶれを聞き、なるほどお気の毒にとすぐに状況を理解した。モンスターペアレントに育てられたモンスタースチューデントがぎょうさんいてる》
母親はさらに、《大学を出たての純粋培養の先生ではとても手に負えない。40代の社会経験豊富で親経験もある先生が必要》とし、《教師を目指す社会人経験者を一人残らずとるくらいの意気込みでなければ、学級崩壊には対応できない》と採用する側の意識改革を求めている。
冒頭の高校教師の手紙は、こう結ばれていた。
《教員仲間には親が教員だった者が多いです。しかし、自分の子を教員にしようとしている人は本当にいません。私も自分の子供を絶対に教員にはしたくない。それが現場です》
しかし、私は教員だ。ここで敢えてこのコメントに反論を書きたい。
そもそも「学習意欲のない」人間を何故救わなければならないのか、理解に苦しむ。
このことに関しては、単純に公務員は全体の奉仕者であることがあげられる。
そして、学習意欲のない青年=人間として可能性がない、とはならないはずだと言うことが大きな理由だ。
勉学の意欲なく、たとえば授業放棄に近い生徒が公立高校を受験したが失敗したとする。残っているのは私学だけ。しかしお金が払えない。このような状況の時、我々教員の心の中に浮かぶ思いは次の2つだ。
①「おまえがさぼってきた結果やしかたがない、どこなと行け」
②「この生徒の可能性が開かれる進路先を可能な限り見つけ出そう」
そして、行動パターンは2つ生まれる。
①事務的に公立定時制か、通信制に持っていく。ただ、一生懸命に対応しているよとの姿勢は見せて置く。
②手間暇かけて時間のぎりぎりまで可能性を探し続ける。 結果は別。
どちらも後悔が生まれる。
もう少し良い方向に持っていく術があったのではないのか。私たちは何をしていたのだろうと思うのだ。
単調だが、毎年この繰り返しだ。
そして、極めつけは、卒業した生徒のその後を見ることだ。全く学習の意欲がなかった生徒がぐーーーんと伸びて数年後に現れることだ。その時ほど中学校のあの姿はなんだったのかと思う。
だから、中学校ですべてを決めつけて、学習意欲のない人間を将来も可能性を持たない生徒と扱って支援、援助をやめることは日本の大きな損失と考える。
コメント
そもそも「学習意欲のない」人間を何故救わなければならないのか、理解に苦しむ。大体にして教員たるもの、単に授業をするだけではなく、当人の学習意欲を引き出すのも重要な仕事ではないのだろうか。
> それが仕事ではないというのであれば、そんなことは塾の講師がすればいいことであって、学校が果たすべき役割を果たしていない「(法的に言う)善意もしくは未必の不作為」ではないのか。
> 率直な現状報告は高く評価するが、それに対する対応はあまりにもお粗末であり、当該教員の力量及び意欲の不足、と糾弾されても擁護しようがないと感じる。
>
> そもそも、それなりの努力もしないために公立校に不合格になるような生徒に対し、公的な支援を行って私学に通ったとして、一体どれだけの成果が得られるのであろうか。
> また、努力もせずに親や生まれ育った環境のせいにする輩は、例え私学に通い、社会人になったとしても全く使い物にならないと考えるのは、厳しすぎるのだろうか。
> 確かに親の所得による教育の格差に基づく、貧困の拡大再生産は絶対に阻止すべきところである。しかし、肝心要の勉学への意欲無くして、それを語ることは全くの誤りであり、同情心を惹いて怠惰に走ることは愚の骨頂と考える。
理由は2つある。
・授業だけをもたせるので、経費削減できる。
・少人数や習熟度別授業の推進により数学などの授業を受け持つ教師が必要になってきた。
これは公立学校でも私学でも同様である。
しかし、非常勤講師の多投ゆえの教育的課題が出てきている。例えば、非常勤講師が増えて、常勤が減少すると、非常勤は授業以外(クラブ活動、校務分掌、会議等)の仕事は出来ないので、常勤の仕事量が増える。また、非常勤は決められた日と時間しか在しないので、教科の打ち合わせや生徒指導上の共有等の欠如が生じやすく、手厚く効果的な教育が期待できないことだ。
それを解決するために、私の学校の非常勤の先生はホームルームに入ったり、会議に遅くまで出たり、生徒を残して一緒に勉強したりしてくれている。
もちろん自主的にしかも無償でだ。
あるブログに乗っていた私学の非常勤の先生の話、興味があったのでのせてみた。
さらに現在の学校は進学校なんですが、うちら非常勤講師にはロクな期待をされていないのが分かります。
学校のクラスは学力順で分けられているのですが(それもどうかと思うけど)、下のクラスを非常勤講師ばかりに持たせます。
そして上のクラスを専任教諭が担当し、管理されています。確かに専任教諭に教師としての実力があることは認めますが、普通だからこそそういう先生に下のクラスを担当させて教育的にバックアップする体制が必要なのではないでしょうか?
今の学校では上のクラスの進学実績のことしか頭になく、教育の機会均等なんて全く忘れ去られているんでしょう。だから生徒にも格差が生まれ、下のクラスの生徒もひねくれる。生徒にとっても迷惑です。専任教諭に教えてもらえず、学級崩壊気味になる。それでもお構い無しです。
今までの学校より偏差値は高い学校ですが、下のクラスの勉強しない様子は異常です。特進クラスとかがある学校までをは否定はしませんが、ある程度平等にクラスを振り分けないと(勉強する生徒を適度に振り分けないと)、勉強やらないクラスでは誰もやらないといった状況になります。少しは公立を見習って、下のクラスこそ手厚く対応すべきです。でないと保護者の信頼もなくすと思います。
保護者は自分の子どもが落ちこぼれた時の対応も気にしています。進学実績ではなく、この学校にいれば最低限これは身につくといったところが無いと、安心して通わせたくないはずです。
自分は今の学校のやり方に納得できないので今年度で辞めると思いますが、学校の方針を少し考え直していただきたい、そして非常勤講師をバカにするのはやめて欲しいとつくづく思うわけです。
教員生活も終わりに近づくと、消化試合になってくるときがある。消化試合の合間に自分の生活を省み、自分の子供の教育を省み、日々の生活に埋没する。学校に行って、なんとなく自分の机に向う、なんとなく仕事をこなす。思えばこんないい日はないよね。困難校であれば、なんとなくこなすなんて余裕がない。毎日が忙殺寸前、忙殺前夜である。
それはそうと、来週、我が子のことで、学校から呼び出しがあった。成績不振、留年するかもしれないとのこと。これには参った。担任の先生から電話があった時いろいろ感情が動いた。
書き出してみると
・担任と学年主任の親への対応が違うじゃないか。どちらを信じたらいいんだ。
・担任の言い方がやけに冷たい。うちの子への愛情が感じられない。
・いやな態度で対応されるんだろうな、きっと。上から目線か。
・うちの子留年さしたら、俺の学校があるこっちの地域からあんたらの学校に生徒を送り込まんぞ。
まあ、ざっとこんな感じで心が動いた。
よく見ると、ほとんどが、事実を確認した話ではなく、不安から出た自分の妄想との取っ組み合いだ。
でも、私は生徒との面談の時、この上から目線を多くやってきてたなぁ。特に若い時の進路面談などは、若いのに年上の親に対しても自分の進路実績を上げることを第一にガンガンと自分の意見を押し付けてきたな。
これには、今は自分で考えてもヘドが出る。
また、生徒が悪いことをしてし、親とともに指導する時も。
「親は何をしとるんだ。あんたらの育て方が悪いからこうなったんだろうに。」悩んでいる親に寄り添うこともなく、ただ、突っぱねて、親も子もぎゃふんと言わせなければ治らないんだ!などと考えて実行していた。
しかし、今は逆の立場にある。そして、そうなって初めてわかることがあった。
教師から責められたり、突き放された言い方されるのが怖いんだ。
言い返すにも、感情を悪くされるとよけいに相手教師から押さえつけられるかもしれん。身動きが取れない。
子供の将来、進路を人質にされているみたいで、逆らえない。
今まで、自分がしてきた所業を自分で味わうときが来たようだ。
私には寄り添うという感覚が足らなかった。
後悔する。
あと残っている教師生活で、どれだけ挽回できるかだ。
本気でやるしかない。悔いない人生を過ごしたいからな。
「お金」だ。
こう書くと、なにを言い出すのかと思われるが、私の経験上、こうとしか書けないのが実際だ。
進路決定の時期に近づくにつれて、実際には3年2学期に入ってだが、親との話し合いの中でどうしても公立に
しか行かせられない状況が浮き彫りになってくる生徒が数人いや、十人近くは出る。
そのなかで学力的に公立高校に行けないかもしれないと現段階で推測される生徒が特に心配になってくる。
どうすれば、その生徒の将来を保障してやることが出来るのか。
このとき教員たちはまだ不安トいう段階だが、3学期に入ると、現実になる。
つまり、公立高校不合格が決定した瞬間である。
泣き崩れる生徒とともに家庭訪問に行く。そして、親とその後の相談をするのだ。
私が提示するのは、将来を考えて、私学の2次試験を提示する。しかし、親はかたくなにそれを拒む。当然かもしれない、私学ではお金が出せないからだ。子供のまえでも親はそれをきっぱりと言う。
そうなると次に、費用の比較的安い、通信制か定時制だ。この手の公立の学校なら年間一万程度の授業料で済む。
しかし、これは、よほど意思が固か真面目な生徒でないと続かない。だから、進学実績を稼ぎ出すにはその手もあるが、私はあまり勧められない。
そこでまだしも100歩譲って、私学の通信制連携校を提示する。これは費用は千差万別だが、安いところがある。年、五十万程度で行けるところがある。最終そこに収まる。
ただ、そこも続くとは限らない。
この時期3月が終わると、罪悪感が残る。もっときちんとした進路を提示できないのかと言うことだ。そして、教師の無力さを痛感する。
お金さえあれば、私学に行かせてやれたのに、定時性や、通信制等に行かせなければならない生徒たち。
公立高校にはいけないが、お金がある故に、私学に行き、さらに大学へも行くことができる道を歩くことができる生徒がいる。
人生「金次第」と思ってしまう時が私にある。
そうこうしているうちに下記のようなコメントをありがたく頂いた。
どの時期にどの程度、実感しているのだろうか?
金が無いということは厳然たる現実として受け入れなければならないことを知っているのならば、それに向かって実力をつけていくはずであるべきと考えてしまうのは、私が他人事だと考えているからだろうか?
実際に他人の助けが得られない現状を把握させることこそが、彼らの為になるのではないだろうか?
仮に、定時性や通信制等にしか行けないとしても、それをさせたのは自分自身なんだし、そこを逃げ出すとすればそれまでと同じことかと。
このコメントにたいして少しわかりやすいように説明すると
だいたい、一学期終わりには80パーセント生徒の内申点および学力が把握できる。
つまり、公立に行けないか行けるかおよそ分かるのである。しかし、様々な点で、生徒や親がそのような学力的な立場を正確につかむことは難しいかもしれない。
理由
1、通知表が相対評価でなく、絶対評価であるため、例えば相対で1,2しかない場合でも、絶
対評価では2,3が付くので本人も保護者も安心してしまう。
2、 業者の模擬テストなどで自身の実力を把握することが難しくなった。以前は学校で行って
いた。それは出来ず校内実力テストで進路指導をするが以前のように必要な数値を生徒
に提示できない。
3、 公立高校に行ける実力がないとはっきりと面談で言えない場合がある。
・生徒のその後のやる気を失わせると判断される場合。
・はっきり伝えた時にトラブルが発生しやすいので、管理職からは断言を避けて面談を行うよう
に、希望を持たせるようにと指導されている。
上には例外もあることを補足しておく。
しかし、厳然とした事実を知らされたとしても、学習に向かわない者もいる。また、学習には一定向うが
合格ラインに達することが出来ない能力の生徒もいる。
同和推進校に限らず、困難校中心にもし進路指導の困難性に関するアンケートを取ったとすれば。
私のような考えをお持ちの方は非常に多いと確信がある。
もし、公立高校の授業料を無償にするなら、本当に救わねばならない最底辺層
はその恩恵にあずかることはない。
だから、公立高校の授業料は6割援助で十分だ。
そして、最下層の生徒に対する援助策を構築すべきだと切願するのは私だけだろうか。
多分もう教員採用試験の時期が終わったからだろう。アクセス解析では「教員採用」が一番多かった、半分以上がこのフレーズで来ていたからだ。
教員採用については是非論じていきたい。
10月になれば多くの県が2次発表となる。
正教員といして採用される見込みが立つのである。これは大きな喜びだ。
しかし、不合格者は、また来年受験するかどうか考えねければならない。精神的に厳しい試練の時となる。
講師をしていて、不合格になると、講師と言う身分の不安定さとみじめさを、また一年経験せねばならない失望感に駆られる。
そして、それが数年続くと…これは自分が経験したことがないので書けないが、すでに40過ぎて講師で頑張っておられる方がおられるが、聞いてみると、意見はそれぞれ様々である。
ただ、「教諭には負けたくない」と頑張っておられる人もいた。
しかし、教諭と講師の違い。講師にもいい人がいるし、実際学校の中核になっている人もいる。これは府に落ちない。
教諭でも、「うーん」と顔をしかめざるを得ない人もいる。
コネ採用はいけないが、実際に十分即戦力、即中核となる人物は積極的に採用すべきではないか、
そのためのシステムも改善していくべきだ。
ある特別支援学校の中堅教員の2人が話をしていたのを聞いた。「毎月2回は学校に行っている。」休日出勤が困ったものだと言いたそうな会話内容だった。
「はあ?!?}それがどうした、と心の中で思ってしまった。
ある都市では勤務管理をタイムカード制にすることを試みるらしい。ある面賛成だ。
そして、教員調整手当を止め、管理職は別にして残業手当を出すべきだ。
もちろん、公立学校教員すべて同じ給与にしてだ。今は特別支援と高校は上乗せされ、高いのだ。
中学校で頑張っている教員達はかなり厳しい労働条件にあるのは明白。給料を特別支援学校の2倍払ってもまだ足りないくらいだ。
なぜ、勤務条件に差があるのに給与にそれ相当の差がないのか。
もし、タイムカード制を導入するなら、学校別に平均勤務時間状況を公表してほしい。
世間では障害児に対する教育は大変だという認識があるのか、養護学校つまり特別支援教育に従事する者の給与は高くなっている。県にもよるが、小中より10パーセント高いところもあるのだ。
どう考えても、どう逆立ちして考えようが、寝ころんで考えようが理由が分からない。
特別支援教育の方がはるかに様々な点で融通が効き楽なのだ。しかも特別支援学校では教師1に対して生徒2の割合になっている。教員人数が多いので一人あたりの仕事量は一般校に比べ比較的少なくなる。テストの採点だけを考えても、いわゆる採点地獄はない。
だいたい一般校の教師は毎日あわただしく働いている。例えば、保健室における養護教諭にしても、学校の中核を担い、今日非常に仕事量が多くなった、。不登校生徒の保健室登校から始まって、いじめ、いやがらせなどの相談、さらにはやんちゃな生徒も授業中構わず保健室に来ることが多い。その対応の中身はもはや世間の常識を遥かに越えている。やんちゃな生徒が5、6人押し寄せてきたら、耐えきれない重圧とともになんとかやりこなさねばと心身ともに疲れ果ててしまう。しかし、特別支援学校の養護教諭にはこの重圧はない。
また、担任など責任を担う教師のプレッシャーは計り知れない。ガム、たばこ、携帯などの不要物、器物破損、嫌がらせ、いじめ、授業妨害、授業抜け出し、違反の服装・頭髪。
これらの指導は日々の日課であり、この合間を縫ってようやく教科指導が出来る。これらの指導が的をはずれたり、後手に回ると生徒や保護者からのブーイングが待ち受ける。学級崩壊にも繋がるのだ。
さらに、中学校は部活指導がなぜか勤務は5時15分までなのに堂々と6時まである。よくしのいでいるなと思うほど仕事は多い。
今、挙げたややこしい指導は一部を除いて特別支援学校にはないのである。
さらに、今日的課題に挙げられる、学力低下論争や格差論争などには特別支援学校は寄っていない。つまり世間からのプレッシャーの外に特別支援学校は存在しているのだ。
例えば、学力向上のため塾と共同し取り組みをするとか、土曜も授業をするとか、習熟度、少人数を考えるとかはないのである。
だからかどうかは知らないが、一般校と同じ教科書を使用している聴覚支援学校は概して学力は一般校よりかなり低い。
障害ゆえに低いのか、私はそれだけとは思えないのだが。上記にもあるようにプレッシャーがなく、そこまで努力する必要性が教師側にないからである。これには反論を示す人もいるかもしれないが、それなら実態を見てから言ってほしい。
例えば、一般校は教科研究を行っているが、特別支援学校は行っていない。
同じ教科教員同士の横のつながりが見えない。
一般校では同じ教科の教員の強いつながりがある。それは必要だからだ。指導内容の相互の確認から、進度の確認、テストの打ち合わせ等である。
また、教材や指導にようするものがそろっていないことも多い。
我々の認識を変え、特別支援教育に重点を置くのは良いが、給与は小学校、中学校と同等にすべきだ。この考えは実は多くの一般校の教員は賛同している。
さらに、浮いた給与の予算で困難校に教師を重点配置せよ。
「携帯を持ってきた生徒をどう指導するか」の場面指導だったそうだ。他の受験生が指導しているのを見て「あほらしなった」と言っていた。
理由は、指導が「規則だからだめだよ」と説教しているからだったという。
今どき、「規則だからやめなさい」で辞める中学生はほとんどいない。それで辞めるのはよほど良い子だと言う。その通りだと思った。
困難校では、社会のルールなどいとも簡単に日常的に破られている。学校の規則だからやめましょうね、の指導など吹っ飛んでいる。
もし試験官がそれで合格させたらと思うと不安が残る。
少なくとも私の現場にはいらない。重荷になる。
心ある鍛錬された試験官なら、悪いことは悪いとはっきり言わなくてはならないが、それをどう彼らのハートに迫るように届けるか、くどくどと説教じみたことは通じないと知っているだろう。
やんちゃは小さい時から教科書に書いてあるような説教は言われ続けてきている。耳にたこ状態。そんな彼らに通用するのはそれを打ち破る教師のハートしかない。
言葉でつらつらと言うほどやんちゃは聞く耳を持たなくなる。それを面接官様は理解されているはずだ。きっと。
入学金:5,650円 (約6千円)
年間授業料:118,800円 (約12万円)
その他に必要な費用
諸費用:平均325,000円 (約33万円)
内容:PTA会費・生徒会費・教材費・制服・学用品代・旅行積立金・通学費など
学外費用:平均132,000円 (約13万円)
内容:学習塾・家庭教師・部活動費・図書費など
この赤の部分が一律援助されるのであろう。
しかし、私学はこうだ
入学金:平均330,000円 (およそ20~40万円)
年間授業料:平均320,000円 (およそ25~35万円)
その他に必要な費用
諸費用:平均450,000円 (約45万円)
内容:PTA会費・生徒会費・教材費・制服・学用品代・旅行積立金・通学費など
学外費用:平均176,000円 (約18万円)
内容:学習塾・家庭教師・部活動費・図書費など
※入学時の寄付金(10~50万円程度)は含まれていません
地方によって授業料は違うが、上記は安い方である。都市部に行けば年間の授業料は80万に上る所も普通にある。
だから12ないし24万の援助が私学で出るというが、焼
け石に水と言わざるを得ない。
公立学校に行けない成績の底辺層つまり所得も底辺
層の生徒達はどうなるるのだ。
昨日ニュースで分かったが、今の駒沢大学4年生は就職求人数は昨年8000人から6000人に落ち込んだという。
あと1年大学に残って就職浪人も奨励しているようだった。お金が掛かるな、親はたまったもんじゃない。
しかし、シンクタンクによれば今年より来年、つまり今の4年生より3年生の方が就職はさらに厳しくなるという。
採用数を激減させている企業もあるが、内定取り消しなどという、あってはならないことも多々起こってきた。
そのような中で、教員に挑戦する者たちがいる。しかし、教員採用試験に見事合格したとて、県によっては安心してはいられない、合格=採用ではないからだ。
つまり、合格=4月1日よりの1年間の採用者名簿登
載と言うことである。だから実際に採用されないことも
あるのだ。
今の時代これはおかしいのではないか!!!
内定取り消しとまではいかずとも不安を掻き立てる採用の仕方だ。
合格し採用者名簿に載るが、確実に採用されないとわかると不安で仕方がない。さらに他に決定している企業を蹴って採用を待っている者もいる。
そこを今の時勢を見て教育委員会はどう考えているのか。
いつまでも採用側が殿様商売をしている場合ではない。
若者たちの身になって採用をキチンんとした形でまず教育公務員が率先して行うべきだ。
6人ほどで場面指導の協議がある。その協議内容を採点するというのだ。もう少し詳しく伝えると、6人がそれぞれ違った課題をもらいその場で後の5人を生徒に見立てて指導するという。
全員終わるとそのことについて協議するというのだ。協議の時間も10分ほどという。一人が2回ほど発言するかしないかである。
ここである県から出ている、場面指導における教員選考の方針たるものを見てみよう。
(1) 指導場面を的確にとらえ、適切に指導しているか。
(2) 積極的に発言し、その内容が建設的であるか。
(3) 周囲の状況を考えて話合いに参加しているか。
(4) 表情や動作に明るさや豊かさが感じられるか。
(1)は場面指導の状況そのものの時のことだと思える。
それ以降は協議の場面を押さえてのことだと思うが、講師の方が言っていたのは、合否がかかっている場面で、協議はなかなか自分を出してやりにくいということ。
積極性=厚かましさ
周囲の状況を考えて=謙虚さの表れ=消極的に見られる
など10分で判断されにくい要素も含まれているのは事実だ。
もう少し時間をかけて観ても良いのではないかと思う。
一人の教師の影響力は自分が思っているより遥かに大きい。
このことを実感したのは、生徒が同窓会を開いた時だった。
久しぶりに「先生!」と呼ぶ声、生徒の成長した姿。もうちょっとこうしてやればよかった…、と後悔の念。
今まで務めてきた学校のいろいろな学年の生徒が同窓会を開く。そこに呼ばれるとやjはり嬉しい。
しかし、後悔と何か知らぬ後ろめたさが出るときがある。
それは一生懸命に生きていない私。しかし、「先生!」と声を掛けてくれる卒業生たち。その真摯な声に対しての後ろめたさだ。
だから、私はもう一度真摯に生きる。卒業生たちに負けぬよう。「おまえらに負けてたまるか」。
もう一度私の願いを思い出すのだ。教師になった時の願い。
それは一言でいえば「励ましたい」であった。なにを置いても生徒達を励ましたいという純粋な心からの声だ。
私はその声(サイレントコーリング)に耳を傾けて、一点を見つめ進もう。
今、わがブログは教員採用試験で検索されるものが多い。
そんな参考になるものもないが、悲しさが湧き出る。
なぜなら、教員志望なる者は様々な無駄な知識によって判定されるからだ。
現場でそんなこと言うてたら、あいてにされんで。
と思うほどの知識偏重。教員は教科専門知識と、一般教養、教職教養がふつうにあり、あとは人間的魅力があれば十分だ。どれだけ人間が好きで、明るく、誠実か。これだ。
文科省がどういう見解を持っているとか、指導要領がどうかとかそれは教員になってからの研修で十分身に付くからだ。それを知らなくても、明日から十分に教師をやっていける。
しかし、人間性は教師になってからでは確実に遅い。
指導要領に精通していることが即戦力にはならない、教師力を計る物差しではない。重要なのは人間力だ。
そこを見るべきだ。
実は、我々が、受けた教員採用試験の方がひょとすると人間力を計っていたかもしれない。
こんなのがあった。号令テストだ。生徒を集め、号令をかける、校外学習の想定で生徒に語り、解散させて終わる。知識は必要ない。実際の場面そのものを演じ、気合いがあるかどうか、それだけだ。
私も気合いで行った。集合時、生徒役になってだらしている受験生を目を尖がらせて本気で怒った。そして最後は笑顔を忘れず。
それと面接。
質問の中に「生徒がひどく悪いことをした時、あなたは生徒に手を振り上げますか」という酷な質問があった。「はい」と言えば、体罰として法を犯すことになる。しかし、私はその場面では手を出すだろう。私はじっと考え「どつきます」と答えた。合格だった。
今なら、きっと問答無用の不合格!に近いかもしれない。