教員生活も終わりに近づくと、消化試合になってくるときがある。消化試合の合間に自分の生活を省み、自分の子供の教育を省み、日々の生活に埋没する。学校に行って、なんとなく自分の机に向う、なんとなく仕事をこなす。思えばこんないい日はないよね。困難校であれば、なんとなくこなすなんて余裕がない。毎日が忙殺寸前、忙殺前夜である。
それはそうと、来週、我が子のことで、学校から呼び出しがあった。成績不振、留年するかもしれないとのこと。これには参った。担任の先生から電話があった時いろいろ感情が動いた。
書き出してみると
・担任と学年主任の親への対応が違うじゃないか。どちらを信じたらいいんだ。
・担任の言い方がやけに冷たい。うちの子への愛情が感じられない。
・いやな態度で対応されるんだろうな、きっと。上から目線か。
・うちの子留年さしたら、俺の学校があるこっちの地域からあんたらの学校に生徒を送り込まんぞ。
まあ、ざっとこんな感じで心が動いた。
よく見ると、ほとんどが、事実を確認した話ではなく、不安から出た自分の妄想との取っ組み合いだ。
でも、私は生徒との面談の時、この上から目線を多くやってきてたなぁ。特に若い時の進路面談などは、若いのに年上の親に対しても自分の進路実績を上げることを第一にガンガンと自分の意見を押し付けてきたな。
これには、今は自分で考えてもヘドが出る。
また、生徒が悪いことをしてし、親とともに指導する時も。
「親は何をしとるんだ。あんたらの育て方が悪いからこうなったんだろうに。」悩んでいる親に寄り添うこともなく、ただ、突っぱねて、親も子もぎゃふんと言わせなければ治らないんだ!などと考えて実行していた。
しかし、今は逆の立場にある。そして、そうなって初めてわかることがあった。
教師から責められたり、突き放された言い方されるのが怖いんだ。
言い返すにも、感情を悪くされるとよけいに相手教師から押さえつけられるかもしれん。身動きが取れない。
子供の将来、進路を人質にされているみたいで、逆らえない。
今まで、自分がしてきた所業を自分で味わうときが来たようだ。
私には寄り添うという感覚が足らなかった。
後悔する。
あと残っている教師生活で、どれだけ挽回できるかだ。
本気でやるしかない。悔いない人生を過ごしたいからな。
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