公立学校の真実
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「小学校で教育実習したとき、2021年度から必修化になったプログラミングの授業を何度か見学させてもらいました。そこで目にしたのは、教えるための十分なスキルがないまま授業をしている先生たちの不安そうな表情でした。時代の変化が速い中で、教員が教えることも変わっていくはずです。そういう場に身を置いて、不安な気持ちのまま子どもに接しなければならないのかと考えたとき、『教員の仕事は自分に向いていない』と思いました。それで、教員になるのはやめました」
私の知り合いの大学生が通う大学では、教育実習が終わった後、教職課程を履修していた学生たち数名が来なくなったという。その大学生が一人に理由を尋ねてみいたらしい。
何度も指導案を書き直さされて大変で、しまいに土日も駆り出された、もう教師になるのを止めたという。
「教育実習」そして「指導案」、実を取るようなものにならないのか。
春優勝の山梨学院や春準優勝の報徳学園が破れるという波乱のようなものもあったようだが、甲子園出場の顔ぶれを見てみると、○○日大とか東海大○○はもちろんのこと、プロ養成所かなと思わせる私学が並ぶ。
一つぐらい無名の公立高校が入ればおもしろいなと思うのだが。
大阪でも、ベスト16までは、意外と公立も頑張っていた。
しかし、その後そろって私学にやられて、ベスト8に公立はなかった。
厳しいようだ。
だが、社高校(兵庫)や市立和歌山の強豪公立高校は私学を凌ぎ甲子園に出た。
部活動が地域へ移行すると高校野球はどうなるのだろう。
教員が高校野球の監督をするというのは難しくなるかなと感じる。
例えば、平日は学校で教員が見て、土日は地域の人に任せる。
整合性の合わないチームになりかねない。
平日も土日もしっかり監督やコーチが見ていくことにより選手を把握し信頼関係が構築されるからだ。
すでに教員と土日などに教える地域の指導者との間がうまくいかないニュースが出ていた。
子どもたちは学校の教師の言うことを聞かなくなっているようだった。
昔、シニアリーグなどの中学硬式野球に属している生徒らが、野球の監督の言うことは聞くが、学校ではいい加減な態度で困ったことがあった。
今後ますますそういう感じが多くなっていくのかなと思うと嫌気がさす。
【山形・米沢市】熱中症疑いで女子中学生死亡…校長会で「熱中症対応指針」の徹底指示
上記のような悲しい事件が起きている。
朝8時30分から活動を始めたというが、すでにその時間帯でも暑い。
10時には活動をやめたということなので、素晴らしい判断だと思う。
1時間30分の部活動だったのだ。
私は、部活動を主顧問で持っていた時、夏休みはあまりにも暑いので、開始を6時40分からにした。
ほぼ全員参加してくれた。ほぼというのは遅刻してくる生徒が1人2人いたからだ。
この作戦は非常に効率が良かった。
6時40分から初めて休憩なしで8時まで練習をみっちりできたからだ。
夏場にこれは大きかった。
8時30分や9時から始めれば、すでに外は暑く、15分やれば10分休憩などとなり、まともに練習できない。集中力も散漫になる。
また、他の学校では16時に初めて18時30分に終わる練習をしているところもあった。
蚊が出ていてかゆいが、影もあり、さわやかな練習となっていた。
早朝、夕方とも練習には欠かせない時間帯だ。
私がやった早朝は、やんちゃたちの多い部活で、夏休みの生活リズムを作るのにもよかった。
さて、私がこの練習をやるにあたり、ムカついたことがあった。
それは勤務時間だ。
6時40分に部活動を始めるにあたり6時15分には学校に行き職員室を開け、部活動の準備をする。
しかし、17時まで学校にいなければならないのだ。
2時間早く仕事をしているのだから2時間早く帰らせてくれよと思ったものだ。
管理職がそれを知っていても、何も言わない。
やはり部活動は勝手に教員がやっていることなのだろう。
夏休み中、6時40分から部活動をすれば、生徒が暑さで命が亡くなるということは考えられない。
しかし、それをやった教員は本当にしんどい。私はよく耐えたなと思う。
同じ関西の学校で、夏休みは何時からでも5時間勤務すれば帰ってよし、としている私学がある。
これは公立では無理だろう。
教員採用試験の前倒しより、2時間早く勤務したなら
2時間早く終わってもよし、と勤務時間の尊守を確定
する方が教員確保に良いのにと思うのだが。
SCの時給5000円多すぎないか。9時に来て17時までいたとしたら、休憩60分として5000円×7時間=35000円。
週1回勤務で月14万円の収入。
週2とすれば28万円、週3で42万円・・・
さて、学校でSCの働きを見ていると、7時間びっしりカウンセリングが入っているということもありません。
いつもカウンセリングに来ている子が休みの時もあれば、行事でカウンセリングがない時もあります。初めからカウンセリングが埋まらない時間帯もあります。
必ずSCは一部屋もらえて、そこを自分の城にできます。教員は大部屋の職員室です。
働きとして、教員の方が圧倒的に精神的にも肉体的にも大変です。しかも、SCは週に1回来るか来ないかです。
そんな調子ですから成果が上がるわけがありません。
SCが配置されても残念ながら不登校は増え続けています。
あとで読んでみると、
かなり妬みが入ってる文章になっていて自分でも驚きました。
忙しい教員生活をさらに忙しくする制度だった。
しかも、私も更新制度を受けたが、頭になにも残っていない。
校内で更新制度を受ける教員たち5人ほどと放送大学の更新制度を受けた。テストがあるのでビビっていたが、内容はほぼノー勉でも楽勝。
免許維持のために3万円を差し出しただけの制度で終わりが来た。
部活動が外部委託されると聞いて、また無謀な策を出したものだと心配している。
完遂するにあたって相当な予算と労力がいり、中途半端に終わる予感にあふれている。
周りの学校では、外部委託される様子もなく、まだ教師が頑張っている。
ゆとりをやったり止めたり、英語や道徳、総合やキャリア教育を突っ込んだりタブレットを持たせIT教育だと、やることはどんどん増え続ける。
学校現場は人が足りないのにすべて教師たちに丸投げで瀕死状態だ。
そこへ持ってきて昔と違って、個別対応が格段に増えた。
いじめや不登校、発達障害、アレルギー食物対応(これは本当に気を遣う、友人もミスって新聞に載った)と教師は気が抜けないし心は休まらない。
学校は戦場である。
校内に非常勤の方がかなり多いが、責任の範囲は狭く教員たちの負担は減らない。
教員免許状を持ってなくてもよいからITや心理担当など人を増やすべきだ。
しかも、公務分掌も担える柔軟性を持った県の正職員として、常駐で学校現場の困惑や推進に全面的に参画できる人事制度としてほしい。
10年ほど前、生徒がガラスを手でたたいて割った。
教室の窓ガラスだ。
幸い生徒にはけがはなかった。
親に連絡をして、そのことを伝え、支払いをしていただくように伝えた。
親は、「学校のガラスが薄いのではないか」と文句を言ってきた。
ありえないと思ったが、親の言い分(苦情)を長々としっかり聞いた。
ただ、支払ってもらうものはきちんと払ってもらった。
この事件に疑問が浮かんだ。
学校のガラスが薄かろうが厚かろうが、一教師がその苦情を長々と親から聞くべきものなのか。
それが教師の役目なのか。1000歩譲って、学校のガラスが薄いならば、その責任は一教師が引き受けることなのか。
日曜日、部活指導を終えて、ホッとした夕方、学校に一人の保護者がやってきた。
公園に注意しても聞かない中学生がいる。とのこと、しかたなく現場へ直行。
すでに生徒はいない。
しかし、そこで、地域の方からおしかりを受ける。
確かに、うちの生徒かも知れない。しかし、地域の子どもでもある。すべては学校の責任なのか。
あらゆることを教師が受けて立つシステムが学校のシステム。
逆に言えば、そのようなシステムを理解して、果敢に責任感を持って行動していく人が、よい教師だとされる。
このシステムになれない人は、今は学校を辞めていく。
実習先にもよるだろうが、指導案を作成するためにかなりの指導が入り、そのために夜を徹して指導案を作成しなければならないからだという。
それどころか、教員免許の単位を取るのに大変だという。
99年からは教員免許を取得するための大学における教職科目が19単位から31単位に大幅に増えた。そして、教育実習は2週間から4週間と2倍となった。(中学の場合)
現場の課題に対応するためではあろうが、特に教員養成課程でない学生たちが教員免許を取得するには、この卒業単位でない教職の単位が増えることはかなり高いハードルになっている。
私らの時には、教育実習は楽しみだった。
なにより大学の授業を受けなくてもよい期間だったからだ。
子どもたちと触れ合え、学校という未知な職場に踏み入れられる期間でもあったからだ。
実習期間中は喫茶店で実習担当教員と茶を飲んで話したり、授業を任されたときは、実習担当の教員がいたかどうか覚えはないほど指導されなかった。
考えれば、指導案が今みたいに大変なものではなかったからかもしれない。
あまり楽しみ過ぎて教育実習の評価はBだった。
職員室を見渡すと、真面目で優秀な先生より、昔ちょっとやんちゃをしていたような先生の方が、生徒との距離が近いように思う。それが良いとか悪いは別にしてだ。
小中の教員は学力も当然だが、人間的幅のある人があっている。
個人的な思いだが、そういう人は別に実習など1週間で十分だと思う。
しかし、実際に立ち歩きが日常茶飯事にある教室にポツンと一人立たされれば、力で制していこうとします。この現状、優しい態度できないです。
よく教師が厳しく指導し過ぎてニュースにのっていますが、その教師の気持ちはとてもよくわかります。
小学校の現場はひと昔とは違います。かなり変化しています。それを世間は分かっていない。いや、変化が速すぎて理解が追い付いていないです。
今、平然と立ち歩きや自分勝手な行動に見えることが、ある意味放置されています。授業参観に来れば分かることもあります。
そのような子供たちを支援する特別支援教育支援員さんを導入したりしていますが、追い付いていないのが現状でしょう。
いろいろ教師はしんどいとか働き過ぎだとか言われています。
その対策として、給与を上げる、部活動を外部へ委託するなど、本当にできるか分からないことを無駄に時間をかけて考えてもらっています。
私が一番やってほしいのは、
①子どもたちと向き合うという本来業務をしっかりさせてほしい。そのためにいらない事務処理や業務を切り捨てるか、それ専門の人を導入してほしい。
②発達障がいやグレーゾーンで担任が手におえない子どもたの支援をしっかりしてほしい。
もうすべて子どもたちを一律に指導するのは無理があるのです。
「インクルーシブ教育」よく分かります。素晴らしいです。
ならばそれができるように学級人数を半分にする。そして、人を大幅に増やす施策を早急に打つ必要があるでしょう。
本当に必要なことはしない考えない姿勢がとても残念です。
基本的に教師は子どもたちのために頑張ろうとします。少し苦労しても。それが楽しいからです。
教師は素晴らしいやりがいのある職業、教え子や知り合いに教師になることをすすめる私が最近、悪魔の使いのように思えてきました。
心が苦しいです。
クラス30人の絵が教室の後ろに貼ってあるのを見ると、どれも同じと思える。
先生方の気持ちはとても分かる。
親とか、いろいろなことが絡んでそうせざるを得ないのだろう。できる限り、みんなを同じレベルに見せること、これが教師に課せられているようだ。
遠足に行って、仏像をみてきた。だからみんなで仏像を描こうという図工の授業。
先生は仏像の色の出し方を説明して黒板に書いた。
みんなはその通り絵具を使った。
仏像の色はみんな同じ色。
画用紙のどのあたりに仏像を配置するかも説明しているので、みんな同じような絵が出来た。
色なんて、その人にとって違うのではないかと思う。
灰色に見えるものもあれば、青銅色にも見える。
おもしろさがなかった。子どもがかわいそうに思えた。
枠にはめなければ、統制がとれず、好き勝手をしてしまう子どもたちの姿がある。
でも、絵ぐらい好きに書かせてあげたい。
私は近頃の小学校教育についていけないかな。
毎日のように教員不足の記事が出ている~
学者たちが教員不足の状況や理由、その解決策をこうだああだと力説している。
いくら力説してみても、悲しいかな、教員不足による現場の疲弊が収まる気配はまったくない。
即実行力のある提言ができず、ニュースだけが滑りまくっている。
一人足らないと、周りは肉体的な負担もさることながら精神的な負担も大きい。
自分の経験からすると、精神的な負担の方が大きい気がする。
ドミノ倒しのように自分に責任がのしかかり、精神を圧迫していくからだ。
お互い支えあっていたのに、実は頼りにしていた支えだったのに、それがなくなってしまうという恐怖もある。 私はそれだった。
教頭や教務主任が担任をすることもある。
2人分の仕事をしなければならない、かなりの負担だ。
そのしんどさを管理職故に吐露できない孤独さがあるように見える。
なにより一番の被害者は子どもたちだ。子どもの学力がつかない。そして、いじめが横行する。
今いる学校で本当にそう思う。担任がいないのだから当然だ。
さて、ヤフコメで、自説を振りまく教授のより、即実行力のある方策を発見した。
「私、教員免許持ってます。 でもウチの県は特に足りなくて困っている風ではありません。 県外でお探しの県がありましたら、講師で行きます。 というような県に登録だけでなく、講師全国的登録制度もあっていいのじゃないかな、と思います。」
講師全国的登録制度
これはいいですね。 ぜひ、採用すべきではないですか。
教員の6割が「いらない」と考えている。
総合の時間の考えは素晴らしいが、忙しいのにそこまで考えて計画する余裕がないのが本音だろう。
教員は仕方ないので、とりあえず何かしているということである。
だから、総合の時間をなくすということは、大げさに言えば、教員にとっても子どもたちにとっても暇つぶしの時間をなくすということに等しい。
もし、総合の時間を有意義なものにしたいならば、教師も総合の時間を授業するための十分な研究時間が必要だ。しかし、そんなものは確保されない。
週2時間程度ある総合の時間をなくすことにより、2時間浮く。これは教員にとっても生徒にとっても貴重な2時間となるだろう。
総合的な学習(探究)の時間は、変化の激しい社会に対応して、探究的な見方・考え方を働かせ、横断的・総合的な学習を行うことを通して、よりよく課題を解決し、自己の生き方を考えていくための資質・能力を育成することを目標にしていることから、これからの時代においてますます重要な役割を果たすものである。
引用:総合的な学習(探求)の時間/文部科学省
しかし、教員は足らないまま進んでいる。
私の市では教務主任や教頭先生が担任しているところもあると聞く。
教育委員会は教員不足に対処しきれないので、学校に教員探しを丸投げしている状況だ。
現場は混乱の様相だ。ある校長はそのことで夜も眠れないという。
これでは教員が子どもたちに落ち着いた関わりができない。
一番かわいそうなのは子どもたちだ。
とはいうもの策があるのか。
と言われればこちらも困る。
一度も教職についたことがないが免許を持っている若い人を知っている。
しかし、現場は使わないだろう。いや、以前、使わなかった。
私らみたいな経験者でなんとかごまかした方が無難だからだ。だから、66過ぎての私にも強烈に引手がある。
現場は、このくそ忙しいのに、手をかけなければならないやっかいな若手を投入して、さらに悪化し混乱するのを恐れる。
現場にはそこまでして若手を育てる余裕がない。
若い人は失敗もある。今までなら、それをカバーしたり励ましたりして育ててきたベテラン教員らがいた。しかし、今やそのような教員もなぜか他人をかまう余裕がない。
それだからか、最近、新任や講師の若いのが倒れて、途中でやめていくのを見る。
教員が足らなくなる悪循環と言えよう。
特に新興宗教と言われるものは、「あやしいもの」とする人が多い。
では、既成の宗教は大丈夫なのか。
キリスト教はかつてユダヤ教から見れば新興宗教だった。2000年前は怪しげな教えとされ、迫害されてきた歴史がある。
日本へも伝道されたが、踏み絵が有名だが信仰しているだけで死へつながることも多々あった。
今やキリスト教の聖書はアメリカ大統領が手を置き誓う存在となっている。
法然さんと言えば浄土宗の開祖。別に怪しげなことも何もないが、当時は念仏など邪教扱いされ、これも迫害される存在だった。
残念だが既成宗教は、今や葬式や結婚式のための宗教に成り下がているとは言えないだろうか。
私の息子もキリスト教の教会で式を挙げたが、その後、イエスの教えを胸に生きたかと言えば、ありえない。
玉石混合のこの世の中、我々は新興既成にとらわれず本物と偽物を見分ける力が重要と思われる。
私は宗教心は日本人に必要と考えている。
困難校にいた時、教師にも生徒にも哲学や宗教が必要な気がしてならなかった。心の荒廃を感じたからだ。
生徒に宗教心が備えられれば、落ち着いた環境や心でものごとを見つめることが出来れば、荒れも少しは小さくなるのではと思った。
ただ、公教育の中で特定の宗教を語ることは難しい。
では、私立の学校はどうだろう。
ある私立の学校では、毎日の職員朝礼で、教員が順番に聖書の好きな一節を読み、感じたことを伝える時間を持つ学校がある。
シスターが教員にアドバイスをすることもあるという。
私は仏教徒でもクリスチャンでもないが、その思想は人間の本質に迫るものがあり、生徒指導に通じるものがあると考える。
小学校を除く全校種で、前年度に比べて月平均の時間外勤務(残業)が30分~4時間程度減少した。
ただ、中学校は「過労死ライン」とされる80時間を上回る約85時間で、府教委は「勤務実態としては依然厳しい状況にある」としている。
平日の1日当たりの平均勤務時間
小学校11時間2分
中学校は11時間13分
高校は10時間26分
特別支援学校は9時間53分
土日の1日当たりの平均勤務時間
小学校23分
特別支援学校が20分
中学校が2時間33分
高校が2時間26分
中学校では子どもへの対応も小学校より難しくなる。
高校は義務教育ではないということから指導にも一定の線引きができる。しかし、中学校にはなく、どこまでも指導を煮詰めていかなくてはならないことが多い。
この思春期の中学生に対して日々奮闘している中学校教員にも心の安らぎが来る時を祈る。もちろん他の校種の教員にも。
いつも思うのだが、大阪市の保護者は発達障害の対応に関して、今の現状に満足しているのだろうか。
あきらめているのだろうか。
それとも、世の流れを知らないのだろうか。
大阪市以外の世間では発達障害の子どもたちを何とかしようと躍起になり対応を進めている。
大阪市では明らかに進んでいない。
これはみんなで声をあげていい状況だろう。
発達障害の子どもを持った親が学校へ相談したいとき、月に数回くるカウンセラーに相談をするしかない状況がある。
つまり、13年間で10倍に増えた発達障害の子どもたちに対応するにはあまりにも限界がある。
特別支援学級担当がいるではないか、という意見もあるが、残念だが、発達障害に関しての本職ではないことが多いのだ。
しかし、他県では、発達障害に特化した通級指導担当がいる。予約すればいつでも相談できる。
もしかして発達検査をしてくれて支援を受けることができるかもしれない。無料で。
また、大阪維新の会は、大阪府議会と大阪市議会の両方で単独過半数となる議席を得た。
だからなにがどう変わっていくのか。
大阪市は不登校率NO,1 そして学力の問題が山済みだ。
まず、しっかり現場の意見を聞いてほしい。
どこの自治体もそうかも知れないが、教員が足らないということで学校が疲弊している。
特に小学校や特別支援が足らない。
教員免許さえ持っていれば誰でもよいわけではない。担任を任せられる器量を持った講師がいないということだ。誰でもよければ、担任を任せた故に大変なことになり、余計に学校がしんどくなることもある。
大阪市はこれらの問題にも、若い教員のバックアップ体制を作って対応していく必要がある。
週2、3回ほどの立ち位置のあやふやな「学びコラボレーター」などの人材投入では追い付かないだろう。
器量や実績があるものの体力・気力がなくなった我々のような老人教員は担任を遠慮したいところだ。
話はそれた。
さて、大阪の学校では特別支援に関して高度な専門的知識を持つ教員はあまり見当たらない。どこの自治体にもあることだが、通常学級を退任した再任用教員や講師たちが支援学級を任されていることが多い。
それでも何とか支援学級の担任はできている。
しかし、13年間で10倍にもなった発達障害の子どもたちに対して、新たな対策が必要ではないのか。
大阪市はそのことを重視していない。
維新はこの大阪市の古い教育体質を吹き飛ばさなければならない。
スクールカウンセラーを配置しても、特に小学校に対しては月1,2回来校のみというところも多い。
焼け石に水と言える。
また、スクールカウンセラーだから発達障害に関して専門的な知見を持っているかと言えば、それには疑問がある。
ましてや、特別支援員とかサポーターが来てくださっているが、特別支援の知識を要求することはできない。
全国的にみて、学校の中で発達障がいに対して専門的な知見を研ぎ澄ましているのは、通級指導の担当教員だ。
その中には、特別支援教育士(S.E.N.S)を持っている教員もいるし、公認心理師を持っている教員もいる。
そういう資格を持たなくとも、かなりの研修があり、担当者が自らお金を出して研修に行っていることもある。
さらに、日々発達障害の子どもたちと出会い、子どもたちを支援し続けているというすばらしい実践がある。
従って、専門知識はより磨かれていく。
しかし、大阪には、正確には大阪市には通級指導で発達障害を救うという考え方はないのだ。市特有のインクルーシブ教育に通級指導が加われば日本のどこにもない強固な支援体制ができるのにと思う。
大阪府の方でようやく昨年あたりから通級指導担当を置きだしたが、模索状態だ。
・・ような形、とは、時間講師なのだが授業は教えず担任のフォロアー(雑務要員)だからだ。
校長は、なぜ私のような老体に仕事を持ってきたのか。
それは教員が足らないからだ。
育休や産休、病休の穴埋め教師がいない、ニュースで何度も流れているあれだ。
A小学校の校長によると、3月終わりになっても、新年度に担任がいない学校もあるという。
そして、教育委員会も講師を見つけることができず、自分たちで見つけてくれと学校に丸投げしてくるという。だから、校長は3月に頭を悩ませる。
校長にとっては、教師が不足した状態で4月を迎えることは恐怖だ。
なぜなら、足らない人の分の仕事を背負わなければならない教師が出てくるからだ。
それによって、連鎖的に教師たちの気持ちが低下していく。
最終的に教師たちのその不満は管理職へ向いてくるし、保護者からも、なぜ担任や担当教師がいないのかと苦情を受けることになる。
だから、4月に穴のない人事をつくることは校長の最大の仕事といえる。
「教職課程の負担軽減や実習のあり方を検討するべき」との小見出しがあった。内容を切り取って伝えたい。
「教員免許を取るハードルを下げては、質が下がるのではないか」という心配もあろうが、一方で、現行のようにカリキュラムオーバーロードが懸念される状況では、優秀な学生を逃している可能性もある。・・中略・・
教職の専門性は大事だとはいえ、現行は養成段階で相当な負荷をかけており採用前の履修は少なくていい。・・中略・・学生の負担や大学などのカリキュラムのあり方も議論していくべきではないか。
また、教育実習は、貴重な現場体験の場であることには疑いがないが、学生にとっても、受け入れ側にとっても負担が重い。そのため実習期間の短縮を検討することが1つ。
との指摘だ。
最近、多くの資格が、その資格を取るためのハードルを上げてきているように思う。
教員免許の取得のための実習も、私のころは中高のいずれかで2週間の実習だけで終わりだった。それが中学免許は中学校で3週間となり、さらに介護実習や特別支援教育の実習も加わる。
入学当初から教育課程を視野に履修していなければ、4年間で免許状は取れない。
教育学部以外の学部で教職課程を取ろうとすると学部の単位と同時に教職の単位をかなり多くとらなければならない。それだけで戦意喪失してしまう学生もいる。
実習の短縮は大賛成だ。
実際、ここ3年間の教育実習は短縮したり内容を軽減した大学や大学院は多い。理由はコロナ禍によるものだ。
私の学校現場にも、女子大の学生が来ていたが、指導案を書いて教壇に立つ実習は免除されていた。そのかわり現場で教員の指示に従って参観や体験をした。それが実習としての単位として認められた。 それでも彼女は今、元気に教壇に立っている。
基本的に教師の力量は専門能力と人間力だ。生きてきた過程でこの能力が備わっていればよいのではないかと強く思う。
しかし、10年前、大阪の教師たちに愛隣小中学校のこと聞いてもだれも知らなかった。
これにも衝撃を受けた。
西成の愛隣小中学校には国籍のない子どもたちが多く在籍していた。
なぜ、国籍がないか。
労働者が日本各地の飯場を転々としているうちに生まれた子どもに届を出すことが出来なかったからだ。
もちろん現在はそのような事実もほとんどないし、愛隣小中学校もない。
数年前、なつかしい「愛隣小中学校」という本を探していた。
しかし、どこにもない。
大阪市の図書館にあるだろうと、検索したが、所蔵しているのはわずかな図書館だった。そこへ行ってみて借りることができた。
手に取った時、懐かしかった。
昼間でも西成の愛隣地区で子どもがうろうろしている。これを危惧した人たちがいた。そして集めて教育し、学校をつくった。
大阪市の教育の原点のように思えた。
愛隣小中学校の教師は一緒に風呂に入れたり、散髪をしたりと子どもたちの教育に生活に時を費やした。
今は、教師の働き方改革ということでそんなことはありえない。しかも、昼間うろうろしている大量の児童生徒はいない。
だが、どうだろう、昼間、家にいて学校にいけない児童生徒は多数いる。
しかも、全国で大阪市は突出している。
現在の大阪市の重き課題ではないだろうか。
しかし、原則はいつ切られても文句は言えない講師たち。
中には次は採用試験を受けようかどうか迷っている人もいるだろう。他の職に変えようと迷っている人もいる。いや、中にはすでに他の職から内定をもらっている人も私は知っている。
さて、講師が多くなると、教育の質は落ちる傾向にある。
その理由は、精神的経済的な安心感に欠く生活を強いられているからだ。
その点、教諭たちは次が保証されているので安心感はある。だから、今の現場で自身の教育活動を計画的に考えることができる。
教諭が多い現場では、管理職も計画的に教育活動を見通すことができる。対して、講師だらけだと来年の計画立てるのも難しい。
学校の中ですべて会計年度職員で賄っている職がいくつかある。
SCやSSWはそうだ。
これらは2回までの更新が許されているので、3回目の更新の時は試験を受けなおさなければならない。
先日、ある自治体のSC採用試験を受けに行ったが、20人募集のところに140人応募していた。これらの中には3回目で、試験を受けなおさなければならなかった人も多くいたはずだ。
このような教育活動の見通しが利かない雇い方が流行っているのが今の日本の教育現場だ。
これでは、不安定な働き方になり、成果が上がらない。
自治体によっては、児童相談所も会計年度職員の採用が多いところがある。非常に繊細で重要な部署であるにも関わらず、残念としかいいようがない。
スクールカウンセラー(以下SC)が配置されているのは中学校が中心だ。
すべての中学校に配置されていると考えてもよい。これは中学校の不登校者数が多いからだ。
ただ、中学校は地域にもよるが、週1回程度の少ない配置がほとんどだ。
小学校では月1、2回程度となるところが多く、さらに激減する。
なぜなら、不登校の案件が少ないからと思われる。
しかし、不登校の要素は小学校の時にすでに児童に芽生えている。
保健室登校、別室登校で欠席には入っていない状態があるからだ。また、遅刻が多い、生活に乱れがあるなどの兆候が出ている児童も多いのだ。
小学校でのSCは、月1、2回学校に来て何を見ることができるのだろうか。
普段の学校での様子を感じとることができないのに、どうしてカウンセリングが出来るのだろうか。理解できない。時給5000円のSCの価値は全く発揮されないで終わるだろう。せめて、月3回は配置されることが望まれる。
SCの配置数は増加し続けているが、不登校児童生徒数もそれに負けず増え続けている。SCの力量やあり方に疑問符を抱く人が出てきている。
SCは専門家として配置される。しかし、心理の専門家であり、不登校の専門家ではない。大学や院で学校や不登校についてしっかり学んできたのではないということを押さえておきたい。
SCの専門性の疑問点がある。今の発達検査ができるのかということだ。
大学や院で発達検査のイロハを教えられても、検査はできないことを断言する。発達検査は実際に子どもたちと出会い、数多くの検査経験が必要だ。ましてや報告書の作成も一筋縄ではできない。
しかも、現在、発達検査はWISCなら4から5へ移っている。K式なら2020年版へ移っている。この対応についていっているのかも疑問だ。
さらに、発達検査だけでは対応しきれないLDの問題もある。LD傾向は増えてきている。その検査は、読み書きスクリーニングが必要となることが多い。これらを実施経験していないと、検査は出来ないだろう。
検査ができないと、正しく検査報告書を読み解くことができないし、子どもへの最適な対応を考えてあげることも難しい。
SCはチーム学校の一員として配置される。
学校という独特の世界で初めて働くのは、理解しがたいことが多いだろう。しかし、SCは教師や保護者との連携ができることが大前提で、それができないと子どもたちを救えない。
なぜなら、週1回は学校へ来るが、その他の時間の大部分を子どもたちと関わっているのは教師たちや保護者だからだ。
従ってSCは専門性+コミュニケーション力が必要十分条件となる。
最近小学校の児童、教師に間近で接する機会があった。
小学校の教員が意図することや苦悩そしてなにより小学校教育の良さがよく分かった。
しかし、その小学校の良さが中学校入学と同時に消されていくように感じた。それは中学校の指導に原因があるのだろうか。
服装や頭髪などの指導にエネルギーを注ぎ、本来持っている子どもの良さを見ることができない中学校の指導システム。
これに中学校の元凶がある。
なぜそうなるか。
それは、中学校にこどもの教育のすべての責任を負わせていることにある。
部活動の地域への移行ということが叫ばれているが、本質を見ていない。
服装、頭髪、地域での問題行動などを学校に責任を負わせることから、親や地域へ責任や指導を移行する方がよほど中学校はスリムで軽くなる。
これは教師誰もが思うことではないか。
「地域のショッピング街で行儀悪いことをしている、すぐ来い」
「公園でやってはいけない野球をしている、どうにかしろ」
など、職員室の電話は鳴り響き、教師は慌てて出かける。仕事を放り出して。
こういうことは本当に教師の本来業務なのだろうか。
頭髪指導も学校で黒に染めたりしていたが、本来その責任を教師が負うものなのだろうか。
そこにスポットライト当てて論議することなしに、中学校は良くならないだろう。
中学校教師の疲弊や精神疾患もやむことはない。