公立学校の真実
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中学時代、悪さをしていても伸びていくやつと落ちていくやつの差が何かがわかる。
一番は、そいつの持っている要素。いわゆる志などだ。
ただ、要素があるものの上がれない者がいる。
原因は金だ。
中学時代、授業も入らず他の邪魔をしていて、うっとしがられてた生徒たち。
こいつらの中で、志が一定あり、親がお金を工面できれば、世の中でまっとうに生き、ましな生活ができる。
なぜなら志をかなえることができる学校へ行き、やりたいことの資格が取れるからだ。
しかし、志があっても、親に理解がなく、金がないなら資格は取れない。
結局、底辺で過ごすことになる。
私のもとに、「先生 就職が決まりました」というメールが多々くる。
授業にいかずに携帯いじって、校舎の隅でたむろしていたやつが、大学に行き公務員試験に合格していた、本当にびっくりした。大学のお金を出してくれた親がいたからそこまで行けた。
まじめだった子が未だに就職できず、生活に困っている。
あの時、お金さえあればこいつの人生もっと変わっていたのにと思うことがある。
どの学級通信を見ても、各クラスの学級通信には名前がついている。
英語のもの、聞いたこともない4字熟語のものと様々だが、どれをとっても立派に見える。
内容も立派なことが書いてある。
例えば…
・有効な勉強方法!
・生活面がよくなる3か条
・よい友人関係のつくりかた
・自然体の君でよい
・ストレス解消法
・熱中症予防…などが載っている。
教師て本当にすごいな。
もし教員がそれを実行したら、教員の不祥事やメンタルが壊れることは絶対に起きないだろう、と思われる内容が学級通信には多々書かれてある。
これだから教師は精神的に疲れるー
職員室では、いかにも自分はできていて生徒たちは未熟でダメ、というしゃべり方をする人が多い。私もそうかもしれない。
だが、自分は学生時代にどれだけいい加減なことをしていたか。思い出せば目を覆うのだ。
教師は未熟でもよいのではないか。
へまや失敗、弱さをさらけ出してもよい。
学校の先生は実はまじめな凡人なのだから。
ただ、あいつらのためにどれだけ生きてるか、それだけを大切にしたい。
日曜日の夜に10名ほど教員がいた。
驚いた。
何をしているのかと言えば、総合の準備をしたり、教科の掲示物を貼ったりと、みんな粛々と仕事をしているのだ。
私は20時に帰ったが、それでもまだ5人いた。多分21時まで、いやそれ以上やるだろうと思った。
自分も若い時はそんな勢いで教師生活をしていたなと思ったら、この変わらないブラックさに何とも言えない気持ちになった。
学校は教師の善意の奉仕で成り立っているところが多い。
しかし、頑張る教師たちは評価もされることもなく、逆に批判されることが多い。
こんな働き方をしていたら、生活に余裕がなくなる。そして、心に余裕がなくなる。そして、生徒への対応にも余裕がなくなっていく。
これは学校の暗転への始まりとなる。
というものの、こうしたらよいという代案もないのが我々で、だれに言ってもどうせ変わらないし、目の前の生徒のためにやるしかないと教師たちは思っている。
やるしかないのだ。明日を乗り切るために、休みはないということだ。
個人の力でそれぞれが生徒たちに対応しなければならない。
教師がそれぞれにバラバラな思いで違ったことを生徒たちに発信することになり、教師の指導にスキが生まれる。
しかし、生徒たちの質と言えば失礼だが、素行がよければ、それでも問題は表面化しない。
うまくいっていると教師たちは見る。
生徒たちの可能性や個性を伸ばすことができているのかと言えば、ひょっとして10を7に落としているのに、7ですばらしいと観て満足しているのかもしれない。
静かにしている、教師の言うことを聞いて学習している、生活面で乱れがない。
そんな表面を見て満足している。
だが、なにかもの足りない。
我々は、人間の表面だけを育てているのだろうか。
内側はどうなったのか。
いや、道徳心とか常識ではない。
自分の願いに気づき、志を持ち困難な社会に一石を投じることができる力だ。
この変化の多い、「まさかの時代」には、大きな変化に対応し、斬新な考えを示し、チャレンジし続けなければ前に進まない。そんな力だ。
教師とは枠の中で古い考え方にしがみついた、飼い犬のようだ。
チャレンジしようとしない安穏とした教師集団からは、世界を変えるような個性ある人物は育たない。 そう、逆に輝きは押さえつけられているようにも感じる。
老教師である私であるが、これからは同僚に一石を放つことができる教師であり続けようと思う。
まず、私からだ。
愚痴をいっている暇があれば実行。
できないとあきらめないで違う方法でやってみる。
可能性のある生徒を、生き生きとした生徒を一人でも輩出するためにここを去るまで全力を尽くし続ける。
6時間目となると生徒も教師もだれる。
そこへ、部活が放課後に待っている。
そこまでして、中3年生を引っ張るのか。
これは、年老いたからそう考えるのか。若者たちはそうでもないのか。
今年の夏の中学校は部活が終われば仕事が終わりではない。
明日の授業の準備がある。
夜9時になっても、学年の半分から3分の1は職員室で仕事をしている。
もう帰ればよいのに。
いつまで仕事をしているのか馬鹿かと思う。その中に自分もいた。
帰ろうとしてかばんを持つと、思い出した。
消毒してない。
消毒液の入った容器をもって2階の手すりやドアのノブを消毒しまくる。
さて、帰ろう。
明日も最高の授業をする そんな夢を見て、帰路に立つ。
しかし、子供たちは教室でグラウンドで授業を頑張っている。
でも、私は老いぼれ教員、体調が悪いのが続いている。
寝ても、疲れはとれない。
なるべく早く帰ることにしている。
校長に「もうやめさせてください」と喉元まで出ている。
私の夢は朝早く起きて、ゆっくりと街を散歩をすることだ。
本屋へも行きたい。大きな本屋だ。
新刊を大量に読みたい。
社会の様々な情報を手に入れるために。
そして、次の一手に備えるのだ。
体力を回復させたい。ストレッチ、視力回復の運動。
できれば、筋トレとバッティングセンターで打ちたい。
仕事を辞めればいろいろなことができる。可能性が広がる。夢みたいな話だ。
時々思う、妻がすごく稼ぐ人だったらなと、自分は仕事を辞めても経済的不自由はそこまで感じないだろうと。
しかし、パートで頑張っている妻にそれを悟られたら縁はきれる。
仕事を辞めてもまたっく困るわけではないが、給料が一定もらえないとなると心もとない。
老いれば、くやしいが、こういう考えになる。
いずれにしても夏休みは2、3週間ほどのところが多いです。
中学校の部活動の大会も、お盆前に容赦なく2日間にわたってある地域もあります。
あまり練習できなかった生徒の体力と、いつもと違って上の大会につながらないモチベーションの中で行われます。
中3生全員が8月中旬前まで部活に引っ張られ、盆が終わるとすぐ2学期が始まるという、休む間もない詰め込み方には教師の中でも反対が多いです。
部活動の大会は中3だけを対象に行うとか、時間短縮をするとかすればよいのに、ないですね。
教師も生徒もこの夏はくたくたです。
この調子で2学期へ突入するのかというとぞっとします。
生徒たちにはマスクをして学校生活を送らせ、無駄なことをさせず、修学旅行もこの感染者数の増加ではなくなるでしょう。
今後の我々教師の考え方によっては、精神的に生徒を追い詰めることにもなります。
斬新な工夫が必要です。
そのような空気が生徒へも親へも、もちろん教師へも当たり前のこととして流れている。
私も初めはそうだった。
だが、長年授業をしていると、その考えこそ不平等を起こす根源だと思うようになった。
副教材はその最たるものだ。
中学校の数学で例えよう。
小学校から上がってきた段階で、すでに中1レベルのことはわかっている生徒たちもいる反面、九九が不十分であったり「14ー6」などの繰り下がりができていない生徒たちもいる。
一クラス40人の学力の幅は、小学校2年程度から当該学年以上のレベルの幅があるのが実態だ。
副教材は、当該学年のものを全員に買わせる。
しかし、底辺の学力の生徒たちにとって、その副教材はなんの役にも立たない。
買うだけお金の無駄になっている。
中学校では副教材の提出物がある。 教師が範囲を伝えて提出させる。
それが評価につながる。
これは、低い学力の生徒も提出しなければならない。
しかし、解けない。
だから、答えを丸写しにして提出する。
学習ではなく、目と手の作業と化す。
こんな矛盾が日本の教育現場でまかり通っている。
しかも、副教材を評価するとき、答えをきれいに写してきた生徒と、自力で一生懸命してきた生徒の評価は同じになることも多い。
その評価は平等なのか。
それこそ本当の不平等ではないのか。
学校では、ばかげた平等が疑問もなく、脈々と受け継がれている。
変えていくべきだろう。
どの生徒も少しでも学力が身につくように、その生徒の実態に合わせて副教材を購入させるべきだ。
低学力の生徒に無用の長物を買わせてはいけない。
副教材の代金は無償ではない。
親が働いて捻出しているのだから、その子に合わせて 有効に使ってあげるのが筋なのだ。
答えを丸写ししている時間も実にもったいないと思う。
そんな時間があれば、九九を完璧に覚えさせる方がより社会に出て役立つ。
まだ九九を覚えきれていない生徒がそこにいるのだから。
しかし、学校には評価という壁がある。
つまり、同じもので測らなければ評価できないという、化石のような理屈だ。
学校は学習するところである。それぞれに合った副教材を用意し、評価は統一されたテストで行えばよいのではないか。
生徒たちが生き生きとした学校生活をおくれるよう、化石のような考えから抜け出して、本当の自由、本当の平等が実現されるようにしたい。
尾木ママの言うことにあまり耳を貸す必要はないと思っているが、一定数の教員がつぶれるという部分には切実感がある。
なぜなら、私もその一人だからだ。
私は老がい教員と呼ばれる歳になっている。朝からぶっつけでマスクをして授業をすると、恐ろしいほど疲れるのだ。きっと若い者には分からないだろうが。
家に帰ると、文字通り、バタンキューの状態だ。
授業をしていて、息が苦しくなる時がある。息継ぎができない。
最近、校長に、今学期限りで辞めさせてくれないかと言おうと思ったほどだ。
話は変わるが、管理職は一般教員たちの健康に気を使えてないのが見て取れる。
それは、校長が下したコロナ関係の決済が、自分の責任問題になって批判や混乱を招かないかに気をとられているからだ。
例えば、修学旅行や合唱コンクール、体育大会などだ。
それをやれば、「こんな時になぜやる」と苦情が来る。
やらなければ、「子供たちがかわいそうだ」という声が必ず来る。
どちらにしても、ものすごく判断が難しく、やるにしろ、どうやって進めるかが問題になり、いつも以上に保護者や教員の理解と協力が必要になる。
消毒や、真夏のつめつめの授業、コロナで子供たちに指導や気を遣うことが増え、一般教員も精神的にも肉体的にも重圧がある日々だが、我々には乗り切るしか道は残されていない。
尾木ママの言うように、2学期も教員を続けられていることを自ら祈る。
自閉・情緒のクラスは基本的に当該学年のカリキュラムに準じるが、なかなかそうはいかないのが現状だ。
やはり遅てしまう。
しかし、場合によっては、通常学級でみんなと一緒に受ける教科も出てくる生徒もいる。
通常学級を教えていても、九九が一部抜けている生徒や、分数はおろか、繰上りや繰り下がりができない生徒もいる。
支援学級の生徒の方がよくできると思うことも多々ある。
逆に、支援学級の生徒で、通常学級にいって授業を受けてもいけるのではないかと思う生徒も数人はいる。
支援学級では何をどう教えようが基本的に誰からも横やりは入らない。
みんなが喜んで授業を受けていれば、大したことをしていなくても担当として十分認められる。
しかし、実際に支援学級で教えていると、あることに気づく。
カリキュラムのチェック者がいないということ。
そして、恐ろしいことに、学習の遅れがあったとしても、それは教員の責任ではなく、本人の能力の範囲であり、仕方のないこととして葬り去られるということだ。
言い方は悪いが、簡単なことを教えて、テストも自在に担当が作れるから、簡単なテストを作り、90点をとらせて、評価も、「よくできました」とすることもできるということだ。
それを誰からもとがめられることはない。
チェック者はいない。
とにかく、穏やかに楽しく学校生活が送れていれば、それで〇がもらえるのが支援学級というものだと言えば、様々な方面から反論が飛んできそうだが。
あえてそう言いたいのが私の持論だ。
休校から学校再開して、すでに1か月が経つ。
消毒作業は思ったより時間がかかる作業だった。
マスクをしての授業は体力がいる。
授業の終わった後の疲れは半端ではない。
授業は速く進んでいかなくてはならない。年間計画を達成するために。
授業中、ジュークを言っている場合じゃない。
横の教師は疲れたのか机に伏せて寝ている。
今日は疲れたと言って3時には帰った。
しかし、職員室は夜8時になってもワイワイにぎわっている。
老害と言われないようにきちんと授業をしようと、授業準備をする。
いつの間にか夜の9時を過ぎていた。あわてて帰る。
なぜなら、早く寝ないと睡眠不足が一番体に響くからだ。
ブログの更新は難しくなった。
東洋経済ONLINE 6月16日 より抜粋しまとめてみました。
文部科学省の調査によると、精神疾患で休職となった公立学校の教師は毎年ほぼ5000人。
「休職にまで追い込まれてしまった人のみの数」です。
なんらかの精神的な不調を感じながらも勤務を続けている先生方はこれよりはるかに多いのです。
そもそも教師という職業は、その性質上、燃え尽きやすく、うつになりやすい職業です。相手のためを思って頑張っているのに、相手からはごく当然のことと受け取られてしまう。エスカレートした要求を突きつけられることすら珍しくない。こういった中で、あるとき突然大きな脱力感を覚えて「バーンアウト(燃え尽き)」状態に陥ってしまうのです。
■責任感の強い性格が自らを追い詰める。
もともと、教師を志す人間の性格特徴としては、根がまじめで几帳面、完璧主義、責任感が強い、他人に気を遣う傾向が強い……といったところがあります。
これらは、うつ状態に陥りやすい人の性格特徴でもあります。
しかし、それが教師自身を追いつめます。
まじめで責任感が強いので、「仕事がつらいのは自分の努力が足りないからだ」、「もっともっと頑張らなければならない」と、自分を追い込んでしまいがちなのです。
先生方の心はなぜこれほど疲れきっているのでしょうか。
次の4つが考えられます。
①多忙化・ブラック化
②学級経営、子どもへの対応の困難さ
③保護者対応の難しさ
④同僚や管理職との人間関係の難しさ
もう少し詳しく見ていきましょう。
① 多忙化・ブラック化
「教師の多忙化」にかかわる要因として、報告書等のさまざまな書類の量が増えていることがあげられます。特に教頭(副校長)の作成する書類の量は、この20年の間で確実に倍以上に増えたと言われます。
以前は暗黙の了解として、多くの先生方が仕事を家に持ち帰っていましたが、現在ではデータの流出の問題を避けるためにUSBを外に持ち出すのが難しくなり、学校に残って仕事を続ける教師がとても多いのが実情です。
ある調査によれば、教師にストレス要因を問う質問に対して、「仕事の量の問題」をあげる割合が、一般企業と比べて教師は約2倍にのぼることがわかりました。
仕事の質以前に、単純に「仕事の絶対量」が圧倒的に多いのです。
■諸外国と比較しても、労働時間は長い
教師の勤務時間について、2016年の調査で「過労死ライン」とされる「時間外労働が月に80 時間超え」が小学校で3割、中学校で6割に上ることがわかっています。
そんな中、文部科学省は「変形労働時間制」(教員でいえば、忙しい時期の勤務時間を延長する代わりに、夏休みなどにまとまった休みをとる制度)を提案していますが、これは焼け石に水。
教師の労働の「総量」を減らさなくてはまったく解決策になりません。
そもそも多くの教師は夏休み中もほとんど休みなく、研修などに追われているのが実情です。ほかのOECD加盟国と比較しても、日本の教師の労働時間は長く、OECD平均と比べて年間200時間以上長く働いていることになります。
教師の残業時間は月に95時間を超えており、この10年で14時間増えています(「朝日新聞デジタル」より)。 しかもそんな中、公立小学校教員の給与を財務省が1.7%削減しました。
「図表で見る教育2013」(OECD)によると、日本の公立小学校の教員の初任給は実質「時給679円!」になるというのです。
これでは教員志望者が激減するのも無理のない話です。
小中学校の教師の一日の平均勤務時間は11時間を超えています。
小中学校とも週の労働時間が50時間未満の教員はほとんど存在せず、小学校で約73%、中学校で約87%が60時間以上も働いているという実態があります。
教員のストレスの最大の原因は、やはり、「仕事の総量の多さ」にあるのです。これだけ労働時間が長いと過労死のリスクも当然高まってしまいます。それに加えて、周知のように教師はいくら頑張って仕事をしても残業代が出ません。
教員の給与を定めた給与特別措置法、通称給特法(1972年施行)に、「教育職員については、時間外勤務手当及び休日勤務手当は、支給しない」と定められています。厳密に言えば、「教職調整額」というものが加味されているのですが、これは一般公務員の残業代の3%程度。どれだけ残業しても、一定額のわずかな教職調整額が支払われるだけです。
これではやりがいをそがれても仕方がないでしょう。
■教師同士の対応の困難さ
②近年、発達の偏りがある子ども、傷つきやすい子どもや、かんしゃく
を起こしやすい子どもが急増しています。
これまでと同じ指導は通用しなくなっているのです。
学級集団への対応も困難化しています。
③保護者対応の難しさ
「学級経営、子どもへの対応の困難さ」と「保護者対応の難しさ」は、分かちがたい問題です。
傷つきやすい子どもたちは、教師の叱責に敏感で、「あの先生が怖い」と保護者に伝えます。すると、それが保護者からのクレームにつながるのです。
「傷つきやすい子ども」の背景には、「傷つきやすい保護者」が存在しています。
その傷つきやすさは、激しい攻撃性を持つクレームへ転化して、教師を追い詰めていくのです。
④同僚や管理職との人間関係の難しさ
「管理職との関係の難しさ」には、「教師の仕事全般に世間から向けられるまなざしが格段に厳しくなってきている」ことが関連します。
どの職場もそうですが、管理職は人事考課をしなければいけなくなりました。また、部下を評価する管理職自身も委員会から厳しく評価されます。そのため、ミスを犯した部下を、管理職が擁護することが難しくなっているのです。
教師の「自己管理」「自己責任」がより強く求められるようになり、教師同士の支え合う関係づくりが困難になってきました。
職場が働きやすい環境かどうかは、人間関係が大きく左右します。
教師同士の間で支え合える関係づくりができるかどうかが、教師の働き心地の鍵を握っているのです。
実は、授業をするのがしんどい。
歳を取っているというのもあるのかもしれないが、マスクをして、3時間ぶっ通しで授業をやるとへとへとになる。マスクをとりたくなる。しゃべり続けると呼吸しづらいのだ。
生徒たちは、手洗いを指示通りしていた。
これには感心した。家でもしっかり言われているんだろうと感じた。
生徒たちは休み時間になると、教室で友達としゃべったり、廊下でじゃれたりする。これは本当に密接密集になっている。
生徒たちは教師から密接になるなと言われても、休み時間に一定数、廊下に出ると必ず密接密集になってしまう。
廊下がもっと広ければ、教室がもっと広ければ問題はないだろう。しかし、そう作られていないからどうしようもない。
物理的に非常に難しいということは十分わかっていても、教師は、3蜜を避けるように言い続けなければならない。
なぜなら、もし、生徒に感染者が出た場合、必ず、学校の対策や指導を責められるからだ。
「どういう指導をしていたのか」
委員会もきちんと3蜜にならないように指示しているはずだ、やっていない学校が悪い。
となるのはわかっているので、せめて教師たちは、生徒に指導し続けていましたという実績を積み重ねておかないといけないのだ。
しかし、その指導によって、生徒たちに圧迫感を与えたり、嫌な思いをさせたりすると、これまた保護者からの突き上げが待っている。
「うちの子は学校が嫌だといっている」
「どうしてくれるんだ」
……と。
だから、圧迫感を与えた指導や言い方をしないように十分すぎるほどの配慮をしている。
以上のことは、学校内でも教職員は共通理解している。
会話するなと言ってしまえば、学校でなくなる。
少人数の学校なら3蜜をさけることができるだろうが、規模が大きくなればなるほどに、3蜜を避ける方法は無くなる。
今日も30度を超える暑さになった。
今後、生徒たちが真夏の6時間授業を耐えてくれるか祈るばかりだ。
私も、若い教員に迷惑をかけぬよう適度な食事、早寝早起きで心身ともに健康を保つよう努力していくことにした。
「いいね」が17 「わるい」が113 のyahooニュースのコメントをブログに披露。
私jは正直に書いたつもりだったんだが……
コメントは以下である。
ここで、教員は大変、かわいそう、というコメントを書くと評価が高い。しかし、真実を言うと評価がかなり悪いんですね。
真実は、「コロナ休校、教員はとても楽」です。正直に言えば世間から非難されるからでしょうか。だれも言いませんけど。給料もボーナスも満額。痛みないです。分散勤務で、生徒もいない。職員室に隠しカメラを設置しとけばすぐにわかりますよ。仕事ないです。いつもは夜9時10時なのがコロナ休暇中はみんな5時に帰ります。
大変なのは、委員会かな。学校はその指示に従っていたらいいだけ、責任はないです。
それより、リモート学習の完全実現を早めるべきです。何があってもおかしくない時代ですから。我々教員もそれに備えるべきです。
この3か月で、公立は私学に大きな差をつけられました。
17 …いいね
ヤフーニュースの記事に何度かコメントを書いた。
内容によって、いいね がつく記事とつかない記事がある。
いいねの反対はダメというのだろうか、実はダメの方が圧倒的に多いコメントがある。
ダメが圧倒的に多いのは、「教員はコロナ休校で暇」という事実を書いたものだ。
事実を認識してほしくて書いたが、世の中はそのようなコメントはどうも嫌らしい。
うちのどの教員に聞いても、休校中の方が楽だといっていたが。世間の目は何を見ているのだろうか。
管理職だって、一般教員と同じく分散勤務をしていた。週に1,2回来るだけだ。管理職と話をしていて、家では暇でもうかつに庭の花に水やりをやることもできない。近所の人が教師は休みだからええわなあと思われたら困るのでと言っていた。私もそれは気をつけていた一つだ。
自宅ではこれといった仕事はできない。なぜなら、データが入ったパソコンは学校にある。データをUSBに入れて持ち帰ることはできないのだから。家では本を読むとかユーチューブを見るとか暇なのだ。
「いいね」が多くつく他の人たちのコメントを見ると、コロナ休校で休み中のプリントを作らなければならない、対応すための会議が多いから大変だと書いてある。
笑う。嘘だから。
会議はいつもと同じ量がある。職員会議、学年会、教科部会、領域部会、その主任級の人らの会議、時々コロナ関係で職員は集められるが、授業がないのでそれでも楽勝だ。
コロナ休校中の宿題のプリント作りなど、平常の業務に比べるとはるかに楽だ。毎日しなくてよいのだから。
みんな言っていた、「この楽になれてしまい、学校が始まるのが怖い」と。
真実ではなく、世間がその時に見たいものだけを見ているような気がする。
今、変革を早急に促されているように思う。
しかし、公立学校は やはりお役所仕事で、 変化を怖がり、既成事実を歩くしかない寂しい状況なのか。
しかし、日本は広い。びっくりした。
ユーチューブを見ていると、県立高校の校長が…
若い教育系ユーチューバ―と対談し、 教えを乞うている姿があった。
それは・・・・
【史上初】・[校長先生は教育系ユーチューバーをどう見ているのか]
というYouTube番組だった。
現役の県立川崎北高校の校長先生が若い教育系ユーチューバーと意気揚々とオンライン授業、リモート授業の中身について語り合っている。
これからの教師は、コーディネーターとなっていくのかもしれない。
チョーク1本で授業をやる時代は終わり、IT化を伴って素晴らしい他人の授業を自分の授業に組み込むコーディネーターとなるのかもしれない。
説明がストレートで迷いはない。詳しく説明すれば余計にわかりにくくなる部分はピシャと省いている。
あるいは、別の動画にまとめている。
コメント欄には「学校よりわかりやすい」「成績があがった」などの言葉が並んでいる。
私もコロナで誰もいない教室で、カメラを回して自分の授業を撮って見てみた。
分かりにくい。笑
負けたーと思った。
その後、高校レベルや大学レベルのユーチューブの授業を見てみた。
分かりやすい―。
高校の時にこれあったらどれだけうれしかったかと思った。
我々教師と学習系ユーチューバーとは何が違うかと考えてみた。
学習系ユーチューバーは1回の授業のためにしっかりと準備してきている様子がある。
寝ている生徒や、教科書やノートを開いていない生徒、しゃべっている生徒を指導しなくてよい。
また、急な質問やヤジに対応しなくてよい。
生徒たちの状態を考えて臨機応変に授業スタイルを変えるために頭を使わなくてよい。
すでにユーチューブに来ているということは、それ相応の心構えを持って来ている生徒たちということ。
これぐらいが思い浮かぶ。
まあ言い訳というところか。
自分の授業を見るということは怖いが、改善点はよく見える。
こうしてユーチューバーたちも改善を重ねながら頑張っているのだろう。
見習うべきは見習いたい。
ありがとう、ユーチューバーたち。
きっとコロナで授業を受けられない子供たちの中にも、学習系ユーチューブを見て頑張っている子もいるだろう。
夏休みに授業、そして平日は7時間授業を取り入れる。
これしかないだろう。
しかし、かなりの無理を強いることになる。
生徒たちの体力、いや精神が持たない。
夏休みに体育の授業をするとなると、子供たちは照り返しのきつい40度近くの気温の中を走り回ることになる。
官僚や政治家は実際に夏のグラウンドに10分ほど立てばよい。恐ろしいことだとすぐわかる。
机上の理論は捨ててほしい。
現場を体験すれば大切なことはわかる。
仮に、夏休みに体育が何とかできたとしてみよう。
教師ならその後のことが簡単に想像できる。
体育の後の教室でぐたっとなった子供たち、そして保健室の機能マヒの状況。
夏は登校してくるだけでも疲れている。荒れている学校ほど、その後の恐ろしさは想像できる。
では、どうしろというのか。
・夏休み中は授業をしても1週間、45分の午前中授業。
・平日に7時間授業をするならば、45分授業。
そして
・規定の授業時数の柔軟で斬新な運用を現場に任せること。
例えば、
・朝の読書を国語または他の教科の授業時数に入れる。
・レポート提出を授業時数に入れる。
・土曜日曜のリモート学習を実施し、授業時数に入れる。
学習のイノベーションを図っていく大きなチャンスととらえて、様々な規定を外していくことこそこの困難な状況を乗り切れると確信する。
持っている教員免許状以外にも教える力がある教師はいると思う。
・英語教師が英検準1級を目指して勉強していたら、音楽教師が英検
準1級を持っていることが発覚し愕然としていた。
・数学教師たちが頭を突き合わせて大学レベルの解析学の問題を解い
ていると、理科教師が来てさっさと解いてしまった。
・数学教師が国語教師の漢字の間違いを指摘した。
・音楽教師よりピアノがうまい体育教師。
・体育教師 顔負けのプロ級サッカー社会科教師。
・剣道2段の体育教師、剣道7段の社会科教師。
この話は本当の話だ。
実は、私も美術教師より美術のセンスがあると思う(自分でそう思って
いるだけ)。
さて、こういう時に考えさせられるのが、教員免許状てなんだろう、本当に必要かなということだ。
「37万人教員増の勇気を文科省はもてるのか、新型コロナで文科省の真価が問われている」
前屋毅
上記は 7日のYahooニュースの見出しだ。
おおよその内容は、教室の3蜜を避けるには、クラスを2つに分けて3蜜を避けること。
そのためには教師の増員が必要であり、その数が37万人だという話だ。
また、その勇気を持てるかと文科省に問うている。
クラスを2つに分ける…40人学級を2つに分ける、など日本では無理だ。
絶対にできないその理由は、莫大な数の教員が必要となることだけではなく、教室の数が今の2倍必要なことによる、大々的な教室不足だ。
いくら少子化で教室が余っているというものの、全国の小中学校の教室を2倍に増やせば、どの学校も教室が足らなくなくなるのは明白だ。
まず、私の学校では、グラウンドにプレハブ校舎を建て続けなければならない、そうすると部活も体育もまともにできないではないか。
物理的 にできないことに対して「真価が問われている」と、ニュースになっていることに大変な違和感を感じる。
ニュースとして取り上げることに恥ずかしさがないのかと、逆に問いたい。
このコロナの一件で明白になった事実は、リモート授業の未整備だろう。
そこにお金を使うことの方が予算が少なくてすむし、次のコロナの第2第3波を乗り越える最速の方法だろう。
そこを議論してほしい。
また、9月入学を論じる方もいるが、それよりも、リモート授業の早急な整備だろう。
その点、大阪府立校の6月末までにリモート学習の整備完了については、強く同意する。