学校の中では不平等があってはならない。
そのような空気が生徒へも親へも、もちろん教師へも当たり前のこととして流れている。
私も初めはそうだった。
だが、長年授業をしていると、その考えこそ不平等を起こす根源だと思うようになった。
副教材はその最たるものだ。
中学校の数学で例えよう。
小学校から上がってきた段階で、すでに中1レベルのことはわかっている生徒たちもいる反面、九九が不十分であったり「14ー6」などの繰り下がりができていない生徒たちもいる。
一クラス40人の学力の幅は、小学校2年程度から当該学年以上のレベルの幅があるのが実態だ。
副教材は、当該学年のものを全員に買わせる。
しかし、底辺の学力の生徒たちにとって、その副教材はなんの役にも立たない。
買うだけお金の無駄になっている。
中学校では副教材の提出物がある。 教師が範囲を伝えて提出させる。
それが評価につながる。
これは、低い学力の生徒も提出しなければならない。
しかし、解けない。
だから、答えを丸写しにして提出する。
学習ではなく、目と手の作業と化す。
こんな矛盾が日本の教育現場でまかり通っている。
しかも、副教材を評価するとき、答えをきれいに写してきた生徒と、自力で一生懸命してきた生徒の評価は同じになることも多い。
その評価は平等なのか。
それこそ本当の不平等ではないのか。
学校では、ばかげた平等が疑問もなく、脈々と受け継がれている。
変えていくべきだろう。
どの生徒も少しでも学力が身につくように、その生徒の実態に合わせて副教材を購入させるべきだ。
低学力の生徒に無用の長物を買わせてはいけない。
副教材の代金は無償ではない。
親が働いて捻出しているのだから、その子に合わせて 有効に使ってあげるのが筋なのだ。
答えを丸写ししている時間も実にもったいないと思う。
そんな時間があれば、九九を完璧に覚えさせる方がより社会に出て役立つ。
まだ九九を覚えきれていない生徒がそこにいるのだから。
しかし、学校には評価という壁がある。
つまり、同じもので測らなければ評価できないという、化石のような理屈だ。
学校は学習するところである。それぞれに合った副教材を用意し、評価は統一されたテストで行えばよいのではないか。
生徒たちが生き生きとした学校生活をおくれるよう、化石のような考えから抜け出して、本当の自由、本当の平等が実現されるようにしたい。
そのような空気が生徒へも親へも、もちろん教師へも当たり前のこととして流れている。
私も初めはそうだった。
だが、長年授業をしていると、その考えこそ不平等を起こす根源だと思うようになった。
副教材はその最たるものだ。
中学校の数学で例えよう。
小学校から上がってきた段階で、すでに中1レベルのことはわかっている生徒たちもいる反面、九九が不十分であったり「14ー6」などの繰り下がりができていない生徒たちもいる。
一クラス40人の学力の幅は、小学校2年程度から当該学年以上のレベルの幅があるのが実態だ。
副教材は、当該学年のものを全員に買わせる。
しかし、底辺の学力の生徒たちにとって、その副教材はなんの役にも立たない。
買うだけお金の無駄になっている。
中学校では副教材の提出物がある。 教師が範囲を伝えて提出させる。
それが評価につながる。
これは、低い学力の生徒も提出しなければならない。
しかし、解けない。
だから、答えを丸写しにして提出する。
学習ではなく、目と手の作業と化す。
こんな矛盾が日本の教育現場でまかり通っている。
しかも、副教材を評価するとき、答えをきれいに写してきた生徒と、自力で一生懸命してきた生徒の評価は同じになることも多い。
その評価は平等なのか。
それこそ本当の不平等ではないのか。
学校では、ばかげた平等が疑問もなく、脈々と受け継がれている。
変えていくべきだろう。
どの生徒も少しでも学力が身につくように、その生徒の実態に合わせて副教材を購入させるべきだ。
低学力の生徒に無用の長物を買わせてはいけない。
副教材の代金は無償ではない。
親が働いて捻出しているのだから、その子に合わせて 有効に使ってあげるのが筋なのだ。
答えを丸写ししている時間も実にもったいないと思う。
そんな時間があれば、九九を完璧に覚えさせる方がより社会に出て役立つ。
まだ九九を覚えきれていない生徒がそこにいるのだから。
しかし、学校には評価という壁がある。
つまり、同じもので測らなければ評価できないという、化石のような理屈だ。
学校は学習するところである。それぞれに合った副教材を用意し、評価は統一されたテストで行えばよいのではないか。
生徒たちが生き生きとした学校生活をおくれるよう、化石のような考えから抜け出して、本当の自由、本当の平等が実現されるようにしたい。