公立学校の真実
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急変とも言える各企業の解雇劇。しかも、住居を追い出されるという不安がある。
雇用保険は職安(ハローワーク)で申請するが、住所がなければ申請できない。しかも審査は1月に1回とくる。
民主党の参院での4案の押切、自民党の衆院での今日の出方、政局中心で国民不在にはしてほしくない。有効な手だてをすばやく打ってほしい。なぜなら、この春、親の負担が増す私学への進学に影響が出始めるからだ。
大阪府は公立高校の定員を増設するという。しかし、それに私学は反発。当然だろう。すべての人が満足する施策はない、ただ、やらなければドミノ倒しのように倒れていく。時間との勝負なのだ。
教員の中にも雇用安定策を様々な意味で待っている人は多い。しかし冬休みを貰う教員は確かに恵まれているといえよう。
年収200万では家族は養えない。400万でなんとかいけるかなというところだ。
高校中退者が多い中、学歴が中卒で年収400万以上の職はあるのか?ほんの一握りだろう。
しかし、家族は養えないが、年収300万なら職はある。 介護職である。ヘルパー2級を取得すれば、今なら介護施設は十分雇用はある。ヘルパー2級を取得しないでも探せば無資格で雇ってくれる事業所はある。
さらに年収を伸ばそうとすると男子ならトラック、タクシーの運転手だろう。
女子もいけるが女子へのお勧めは、準看護師だ。知られていないが準看護師はまだまだ雇用がある。正看護師より年収は低くなるが、400万の事業所はある。
そこで問題になるのが資格取得だ、まずヘルパー2級だが、最短で2か月弱、養成所で8万もだせばとれる。公的な機関ならさらに安くなる。
準看護師だが、2年間準看護師養成所での修行が必要になる。養成所が少ないのが問題だが…。
以上すべて中卒で可能だ。
政府にお願いがある!
私たち中学教師は、高校退学者に対して職の相談を受けるときがよくあるが、実は一生家族を養っていける職についてはアドバイスのしようがない。昔、根性がある子には美容師の道があったが、高校卒以上という新たな条件が入り夢は断たれた。
最近、さまざまな資格取得の条件を吊り上げる傾向にある。考えてもらいたい、道を閉ざされた若者は確実に生活への希望を失う。子育ての意欲への影響から少子化が加速され、新たな問題を連鎖させて行くだろう。
ヘルパー2級も準看護師も段階的に廃止していく計画をお持ちだが、止めてもらいたい。この道は残すべきだ。
日本を愛する者の戯言(たわごと)
確かに資格は重要で、私たち自身の教員免許も更新制となった。その反面、校長を社会人から募集したり、特別枠で教員免許なしで教員を確保したりする規制緩和施策が出てきた。また、公立学校も中高一貫教育が流行っているが、そこの偏差値が高すぎる。従って社会底辺層の塾に行けない生徒たちには無用の代物として映っている。
教育界の規制緩和はほとんどが高能力、高学力層を対象にしている。 底辺層の生徒も救われる施策を出すべきだ。
東大が年収400万以下の世帯の生徒は授業料を無料にすると謳っている。これも何らかの良き影響を社会に与えてくれればと願う。
聞くところによると担任発表後 当たりはずれで井戸端会議があるそうな。
担任の発表時、またはクラス発表時によく生徒が嘆いている姿や、喜んでいる姿が見られる。いやな先生に当たったのか、友達とクラスが離れ離れになったのか、親友と一緒のクラスになったのか一喜一憂というのかが見られる。
それを見ている教師も悲しいものがある。
自分の担任する子どもがすでに自分のことを嫌いだとか、きもいだとかわめいていると、けしていい気にはなれない。
しかしここは大人、我慢である。ぐっと涙をこらえて、一年間かけてクラスつくりに努力を傾ける。
最後に分かって貰えればそれでいいんだ。
きっと卒業したら、誠を尽くした分だけ覚えてくれていることを祈ろう。
ニースによると
政府の教育再生会議の第1分科会(学校教育)が29日、首相官邸で開かれ、道徳教育を小中高校を通じた「正式な教科」と位置付けることで意見が一致した。
道徳教育は現在、絶対評価(小学3段階、中学5段階)の対象外だが、将来は対象に加える方向で検討し、5月に出す第2次報告に盛り込む。
道徳教育は、学習指導要領で国語や算数・数学などの教科とは別の領域とされる。年間35時間の「道徳の時間」のほか、音楽や体育など学校の教育活動全体を通じて実施するものとされている。
しかし分科会終了後の記者会見で、小野元之副主査(元文科事務次官)は、会議で道徳の教科化を目指すことで一致したことを明らかにしたうえで、それにより指導要領上の位置づけが高まるとの考えを示した。
小野氏は「道徳教育に不熱心な教師がおり、教材も充実していない」と語った。
道徳に不熱心な教師はいるよ、熱心な教師もいる。道徳教育をあまりさせない学校もある。適当に学活や総合学習にしている学校もある。もちろん道徳にしっかり取り組むところもある。
おれいやだーそんなの数字であらわせられないよー。
しかし、それだけじゃない、症状がよく似た生徒が多いと思うのは私だけだろうか。
話は変わるが、私が中学や高校まで花粉症なんかなかった。
今はホントに生徒も苦労している。マスクをしている生徒増えてきた。 「先生、目が痛い」と訴える生徒も多い。
どうなっているんだ。 花粉症。LDなど。そして不登校の生徒も私が中学校の時はいなかった。しかし今は各クラスに1,2人いる。
どうなっているんだ。
だから、来年度より聾、盲、養護学校などがLD,ADHDなどもふくめて特別支援学校になる。
様々な支援が必要になってきた今日の教育。
底辺校とか困難校と呼ばれる学校は大変だと思う。 荒れている生徒に、さらに支援を必要とする生徒の出現。
不登校の生徒が一人いるだけでも、様々な支援が必要だ。
例えば、不登校の生徒が学校にこれないので、いわゆる別室登校をするよう呼びかける。そして教室には入らずどこか別の教室で指導をする。
授業に行かなければならないし、来ている不登校の生徒を指導をしなければならない。それが学年に2,3人同時に来たときは学年教師は回らない。
さらにこれが荒れた学校なら、教室から出る生徒や、その為に廊下で待機する教師も必要だから、教師はへとへとになって1日が終わる。
これが現在の学校の複雑なしんどさだ。まあもっと言えばさらに事務処理というのがまっている。
そして土、日はクラブ活動だ。
きっと教師も授業準備に時間を使いたいと思う。でもそれより生徒指導に時間が割かれるのが現実だ。
せめて、学習障害らしき生徒の支援教師を増やして欲しい。学習障害と認定されていなくてもほとんどそれに近い生徒は各クラス2,3人はいるような気がする。
動物園状態とまではいかなくてもそれに近い。
まあ、うちの学校だけが特別なのか…分からないが。
「えっ、やばいもんみてしまった」と内心おもい、注意するか見てみぬ振りするか一瞬とまどった。
中学教師として見逃すわけにはいかん、たとえ他校の生徒であろうが…と正義感らしきものが走り、「どこの中学や!」と言葉をかけて、タバコを注意した。
まあそれで引き下がるかなと思いきや、そのうちの一人の男子がなんや!といわんばかりに私の顔にタバコの煙を吹きかけてきた。
やばい、これは単なるけんかになる、嫌やーーーー。手を出されても、出しても教師である俺は損。
少し離れて、私が携帯をだしてかけるまねをしだしたら、すごすごと去っていった。
きっと警察にでも電話しよる、と思ったんだろう。あるいわ、こんなアホなおっさんに付きおうてられんと思ったんだろう。
いずれにしても、駅前のローソンで中学生の制服をきてタバコを吸っていて、世間様誰もが注意をしないこが、中学生たちを自由きままな、やりたい放題の人間に育てることになる。
誰かが注意をすれば、少しは止まる。
それでよかったと思った。
しかし、自分とこの生徒でも手に負えんのに、他校の生徒を指導するなんて、しかもプライベートな時間、
教師業はかなんわ。
もし、あの時注意しなかったら、また職業柄、心が痛むんやな…。
どうやらずいぶんとお久しぶりらしい。
それは、ブログを書くという意識がかなりうすくなったからだ。
現実の学校のお仕事の多忙さに圧されてしまった感じだ。
天理で中学生が逮捕されたらしい。それは嫌がらせメールを500程も送りつけたからだ。
バカな話だと思うがどこの中学校でも嫌がらせメールのやりとり事件はあると思う。
なかなか指導しにくい。アドレスを変更してだれからか分からなくしてから送りつけてくる場合もある。
正直逮捕はきついが、その子にとって見つかってよかったかもしれない。
私は今、荒れている学校にいる。
自分のクラスもかなりしんどい状況になってきた。学級崩壊とまでは行かないが、つくづく子どもたちの心の荒れ方にはついていけないところまできた。
どうしてこんなに学校て、しんどくなったのかな。
学校現場の者と世間様の感覚とは大きなずれがあると思う。これは経験したものでないと分からないだろう。
では、また現場へと行くとしようか。よっこらしょと。
ようやく新しい記事を書く気になりました。
…
個人的には相当しんどい時期なので、パソコンの前に座っても書く気には慣れなかったのですが、今日、新聞の一部を友人がファックスしてくれていました。その記事を読んで興味を持ちました。
それによると、関西学院大学の野田まさあき教授が――「させる教育」の構造映すいじめ――と題して文を書かれていましたので、それについて紹介し私見偏見を書きます。
野田教授曰く…
いじめに苦しむ者から文科省へ自殺を予告する手紙やメールが日ごとに増えている、との報道があった。9通、16通、22通…。
すべての手紙が児童生徒からのものではないであろうが、それにしても、凄まじい子供たちの復讐である。
報道はピッタと止まった。
死の叫びのなかにある抗議に気づき、政府が国民一人一人に直接対応しているわけにはかないと身構え直したのか。
だが、文科省と都道府県教育委員会に届く死の叫びの分析だけでも、学校教育の病理が見えてくると思われる
と初めに書いて次にいじめを分析している。
いじめは1980年代中ごろより急増した。
校内暴力が教師の反撃や警察によって押さえ込まれた後、子どもたちの攻撃性は「いじめ」と「いじめられ」の陰湿なゲームに内向していった。
被害者はそれぞれの時点ではほとんど一人だが、その一人がいなくなったり、誰かがいじめられている子をかばったりすると、容易に対象を変える。
.
…感じたことを警戒なくしゃべってしまえば、何時それがいじめの材料にされるかもしれない。
こうして子どもたちは表面的におとなしい子どもを装いながら内面を閉ざすようになった。
彼らの親たちが会社に過剰適応し、過労自殺していった社会現象を、数年後から子どもたちが追ったのである。
ここから、いじめの3つのケースと題して野田教授の分析が始まっているがここでは省略。
≈
興味深いのは「大人のまね」と題して書かれてあることである。
文科省のいじめの定義は「自分より弱いものに対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が苦痛に感じているもの」となっている。
これはそのまま、強者である文科省-教育委員会-校長のラインが書類ずくめの強制で教師に加えている暴力に当てはまる。
こどもたちは背後からしっかりと見ている。
野田先生、もう一声かけて欲しかったですね。文科省^-教育委員会-校長-教職員までね。
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最弱者は教職員ですよ。この一般教職員がどれほどストレスを抱えているか。怖ろしいほどです。
よく毎日耐えているなぁと思います。
野田先生が言われるように、無意味な書類、無意味な外向けの評価を気にした教育実践。そのために費やすエネルギィーは次に徒労感に移行し教員のストレスとして溜まる。
子どもに還っていく仕事なら教師は比較的ストレスを感じないですよ。
でも子どもに何も還らない、明らかに校長や市教委の面子のために頑張る仕事がみえみえだからストレスが溜まるんですよ。
どうしても上にいけば面子、体裁、評価一本になってしまいがちですからね。
そんな教師の姿を生徒は肌で感じているでしょうね。
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さて、野田教授曰く…
教育は「する」ものであって、「させられる」ものではない。
教師が同じ学校で落ち着いて働けていれば、教師と子どもの人格的ふれあいが当然ある。
もし、、いじめがあると思えば、教師はいじめている側を呼んで調査報告書を作ったりせず、彼らと一緒に遊んだりするであろう。
そうすれば彼らの人間関係、彼らの不満が見えてくる。
♦
野田教授!まさにその通り!ですよ。
V
大学教授は外から学校を見て客観的に分析しているだけと思っていましたが、この野田教授はよく中身も分かっていらっしゃると思う。
そして極め付けが…最後の一言ですね。
こんな時間を与えずに、教育を破壊した者たちが教育再生などと命名して、「させる教育」を論じている。
•
野田教授、あなたこれが一番言いたかったことじゃないですか。私には誰のことを言っているのかはわかりませんが、かなり怒り心頭ですよね。
現場を分かっていない人が教育再生を論じている。といいたいのでしょう。
例えば、いじめをしたものを登校させずに出席停止措置をとると一時言い出したり、他のメンバーが反対したので、折衷案として、別教室での指導をすると落ち着きましたが。
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無理ですよ。初めの自宅謹慎措置はかなり無理。
それが出来る現場であればすでに深刻ないじめはないですよ。いじめている現実が教師も分からない。或いは教師も分かっているがどうしようもない。
これが深刻な自殺にいたる時の実態ですよ。
たまに教師の怠慢や教師のいじめもあるようですが。
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また、別室指導なんてよっぽどひどい場合か、しっかりいじめの証拠をつかんで〈いじめられている子がしっかりいじめられたと言ってくれる状態)でないと出来ないですね。
或いはいじめている側がわりとまともな時はすんなりと解決、(あたりまえか)。
逆に証拠もないのに指導すると他の先生方もご経験があると思いますが、いじめてるほうに逆手をとられて今後の指導が困難になります。
いずれにしても強攻策をやるなら出きる環境を学校、教師側に十分に作ってあげてからですね。
出席停止はまず同和校ではできないでしょう。
それをしってますか?再生会議の方々。
福岡中2いじめ自殺事件も同和校という枠組みの中でのことですよね。複雑です。
教師の評価、学校の評価をすることはそれなりに成果はあると思いますが、学校評価を上げる為に必修科目の未履修を発生させ、委員会も黙認する暗黙システムを作り出すのは本末転倒ですよね。
また、教師の評価はそんなに簡単にできるものじゃないと思うのですが。
みなさんどう思われますか。
プロ野球でもなし。
*
最近新聞では指導力不足教員排除のために免許法など様々な締め付けが増えていますが、残念なことに指導力不足教員でないものも非常にプレッシャーが掛かっていると思いますね。悪い意味で。私も。
教師は他から見てどのように評価されているのかを常に気にしながら、体裁を整え、書類つくりに励み頑張りだすでしょう。
本当に昔の先生的な人は切り捨てられ、評価されず、すたれていくでしょう。
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ドンくさい教師がいてもいいじゃないですか。誠実にがんばっているならきっと生徒からしたわれますよ。
外向けの研究や文書作成が少々へたでもいいじゃないですか。校長先生を引き立てられない教師でもきっとよいところはあると思いますけど。
京都新聞12月8日号文化欄を親友よりファックスいただきまして、私見偏見を書いてみました。
教育再生会議が緊急提言へ
“いじめた生徒は出席停止”
学校でいじめによる自殺が相次いでいる事態を受け、安倍首相直属の教育再生会議(野依良治座長)は25日、いじめ問題に対する緊急提言を来週にもまとめ、公表する方針を固めた。
都道府県や市町村の教育委員会に対し、〈1〉いじめた児童・生徒に出席停止など厳しい対応を取る〈2〉深刻ないじめ問題が起きた場合に備え、緊急に学校を支援する態勢をつくる――ことなどを求める。
同会議は来年1月に中間報告を作成する予定だが、自殺問題を重く見て、法改正などが不要の緊急対策を早急に打ち出すことにした。文部科学省も速やかに対策を講じる考えだ。
学校教育法では、「児童の性行不良で、他の児童の教育に妨げがある時」は、市町村教委は保護者に対し、その児童の出席停止を命じることができると定めている。具体例として、傷害、心身の苦痛、財産上の損失などを与える場合を挙げている。
文部科学省はこれが同和校でさっそく出来ると思っているのだろうか。?
同和地区以外の生徒の出席停止なら同和校でも出来るよな管理職諸君。
昔、学校ってすごく簡単なシステムだった。
教師が教科を教える、悪いことをしたら指導する。放課後はクラブ活動をしてやる。
これだけだからそれに専念出来た。
つまり子供にすごく関われた。
でも、今はとっても教師は管理され、ちっともおもしろくない。
絶対教師は自由が必要と思う。いわゆる機械でいう“アソビ”という部分です。
今は上意下達一方通行だ。 それは教師はもう諦めている。
「言っても変わらない」と、そして言えば言うほどその教師の立場が悪くなる。私は組合の人間ではないが、
それにしても上の支持は常に変わる。ゆとりかと思えば学力重視、右往左往の現場。「言っても変わらない」。
総合学習!あれはなんだったんだ。 今は学校上げての学力充実、補習につぐ補習。進路実績をあげよ!だ。
だから言ったことじゃないのよ。
マスコミの過激報道によるいじめ自殺の連鎖は予想通りだ。
新聞をみるとなぜこのような自殺とか暗いニュースが記事を覆っているのか?小中高生は一般社会人がかんがえるよりはるかに危険な状態なのは教師は分かっている。
しかし、記者に聞きたい。あなたの家の2階から見える風景は汚いゴミや排ガスやビルのコンクリートなど殺風景しか目に入らないのか?
道端に咲いている綺麗な小さな花たちは見えないのか。
スポーツに打ち込んでいる中学生もいるし、人生を真正面から見据え「将来人のために尽くしたい」と考え学問に励んでいる高校生たちもいる。
生活の苦しい中で働きながら懸命にがんばっている大学生もいる。
言うにいえない事情を抱えながらも歯を食いしばって学校に行く小学生もいるだろう。
なぜその美しい花の輝きをもっと報道しない。
いじめはだめ、死ぬな…から次に子供たちの輝きの連
鎖を報道してほしい。
なぜか考えてみた。それは、差別解消といえども、促進学級にきている同和地区の子よりまだ低いあるいは同じ程度の学力の子がいるのを無視していたからだ。同和地区以外の子は個別に学習する促進学級には入れないのだ。同じ学校の生徒でもだ。これを学校で話すと私が差別者になる。だから口が裂けてもいえない。そして、実はこの学校のほとんどの教師がおかしいと思っている。しかし、言えない。共産主義の圧制された世界のようだった。それに嫌気をさして病休をとっていた教師もいた。
ある日、全職員がある建物に呼び出されたみたいだった。そしてみんなその時は神妙だった。異様な神妙さだ。何だろうと先輩教師についてその建物に入った。静まり返る中、校長が部落解放同盟の方々の前でなにか文章を読み上げる。しばらくすると「こらー○○△×!」とあちこちから罵声が響いてきた。しかし、校長は途切れず読み上げた。すごい。その後、いわゆる糾弾がはじまった。校長がほとんど対応していたように覚えている。しかし、終わった後はみんな疲れていて、「ほんまにあほらし…」と言った感じだった。先輩教師は「いまどき、こんなところがまだあるんやで、よう覚えとき」と小さい声で言った。
そして、いよいよ進路の時期に入ってきた。ある学校では同和地区の生徒の内申書を完璧に改ざんしていた。1と2しかない成績を公立学校に入れるような内申書に改ざんする。初めはびっくりしたが、先輩教師たちは当然のごとくやり過ごしている。当日の入学試験の点数が低くても公立に入れるようにする。同和地区の生徒の進路をどんなほうほうでもよいから確保する。進学率を他地区と変わりないようにする。それが校長の最優先課題だ。もし、それができないとなると、糾弾が始まる。だから、どんなほうほうでもいい。他の生徒の進路はその後考えてもまだまにあう。
山口県では、促進学級は平成11年には無くなった。
このように甘く育てられてきた生徒は本当に自立できるのだろうか、心配だ。
同和教育の矛盾は多くの教師が抱えている。しかし、あまり大きな声では言えなかった。nnn。その中でも好き嫌いは別として共産党ははっきりものを言ってきたほうだなと思う。他の政党そしてマスコミは本当に弱腰だ。しっかりしてくれよ子供のために本当の市の教育を派閥や政党や対面を捨て超えて作ろうじゃないか。
いじめ自殺 の 連鎖は止まらないですね。毎日のように悲し出来事が起きています。
それでも私は昔のことを思い出します。 昔、小児麻痺の子で歩き方が変な子がいました。ふわふわ歩くので、ふわふわとあだ名を付けて僕と奥ちゃんがようするにいじめてました。 あんまりひつこいので、担任の先生に言いつけられてしまいました。職員室呼び出されました。
担任の先生からガーンとおこられるのかなと思ったけどホントにやさしく諭してくださいました。 それ以降2人はいじめを辞めました。 根っからこれは悪いことをしていると自覚していたから、怒られた時すごく恥ずかしかった。
正義がまだ強く、全体に通っていた。今とは少し違う雰囲気かな。
私はこうして成長し今はいじめを指導している。
そして指導する時、この話もしている。
最近のいじめ自殺連鎖に追い討ちをかけないよう配慮し始めたのか
騒ぎ立てる報道も若干少なくなった。いじめから話題を一旦そらしたい。以前、長崎市立片淵中学校バレー部の顧問が体罰をしたことがあった。生徒は精神的ショックで授業に出られず…だった。体罰は法律で禁止されている。どこの学校も体罰は絶対いけないと管理職が職員に伝えている。伝え方としては「たとえよかれと思い体罰をしても、今の現状では体罰の事実が一人歩きしてしまう。さらに、体罰でしか教育出来ないことを露呈しているようなもの、体罰でない方法で生徒をしっかり導くべき。」といった内容のものだ。しかし、ここで今の小学校、中学校の現状を国民の皆様がどれ程しっているのかが疑問に残る。
ただ、体罰がいけないと教師だけに責任を押しつけていくと、これからの日本はますます大変なことになっていく。これは小~大学生に至るまでの様々な事件の報道をみれば一目瞭然だ。あの子たちは一握りだと思っていては事実が見えない。わかりやすくいえば氷山の一角。それほどの危機感を持ってもあまりあると思う。生徒たちの何かがすでにオカシイ。病んでいる。これは本当に教員になってみないと分からないかもしれない。外からではほんの表面だけしか見えない。だから、教師が悪いと単純に発言されやすい。今の生徒の言葉使い。普通ではない。生徒の考え方これもノーマルとされる考え方はすでに浸食されている。生徒の間違った人権を守るが故に真の生徒の人権が守られていない。これが今の学校だ。
言葉使いは公立の学校ではひどいものだ。(私立は一応出来ているところもある)女の子の発する“おまえ、俺”は特別ではなくなってきた。テレビドラマでもすでに使っている。殺すぞ、死ね、きもいはもうすでに学校で市民権を得て自由に使っている。教師も以前は指導してきたが、今はしなくなってきた。言葉いが悪いと心まで完全にすさむ。
また教師に対しての言葉使い、態度も極まりなくひどい。唖然とする。そして教師も激しくショックを受ける。くやしさとか怒りを超えている。例を挙げると。教師が「そこのゴミを拾っておいてね」というとすかざず、生徒が「はあ?おまえがひろえやー」という会話。現実的には甘い顔を見せると完全になめる。指導が効かない。つまり崩壊だ。だから厳しく脅すというのもどうしても使ってしまう。生徒は学校や教師をなめているから(教師も教師だし、世間からこき下ろされているので)、目の前で平然と悪いことをするやつもいる。人間として最低限してはいけないこともすでに破られている。学校倫理は崩れたかもしれない。いじめもとめられない。私はいじめや体罰事件を通して皆様に考えてほしい。教師は過去のように万能ではなくなったということ。なぜ、教師が体罰を振るうのか。そうでもしなくちゃ終始がつかないと見えてしまう現場の実態が存在するということ。私には学校から子供たちの叫び声と共に教師の叫びも共に聞こえる。
教師が疲弊した面白くない学校がどうして生徒が面白いとおもうのか。ありえないだろう。
影山メソッドの影景山氏が言っていたが、せめて兵庫県高塚高校校門圧死事件の以前(生徒は生徒、教師は教師の当たり前の次元)まで戻して欲しいのは影山氏と私だけだろうか。
いじめ報告問題で自殺か=小学校長の遺体発見-北九州
校長がまた自殺した。
なんどもいうようだが学校だけをたたいても解決の道からはほど遠い。
いじめに過敏な反応を示し責任追求だけのマスコミ
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報道は自殺者を出すだけではないのか。
疲弊している学校にこれ以上強力な爆弾を投下して喚起を促し、さらに教師に責任を負わすのはあまりにも加重だとおもうがどうだろう。
この問題いじめは学校の問題だが教師が頑張れば全て解決すると思っているのか。
教育委員会も例えば「このような事態になったのも私どもの責任にある。カントク不行き届きだった。早急に学校とともに最善の道へ解決を図りたい。」…このような温かい言葉がでないのか冷たいぞ。
委員会にも数年前共に苦労してきた元同僚仲間がいるだろう。容赦なく世間体でものを言うのでなく、役所的責任逃れの態度を示すのではなく血の通った仲間としての言葉を発信して欲しい。
校長に全て責任を投げて孤独にさせるな。
それは見ていて悲しいぞ、教育委員会の仲間たちよ。
共に逃げず、一緒に立ち向かって解決を図ろう。頼むぞ。