公立学校の真実
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「自分がやりました」。主任航海士は巡視艇への乗船勤務中に、思い詰めた表情で船長に流出を打ち明けたという。「彼はとても正義感が強い人だったから、映像の非公開を決めた政府の対応が許せなかったんだろう」。主任航海士の元上司は、突然の「告白」に至ったかつての部下の心中をおもんぱかった。
「一言で表現するなら、彼は非常に優秀な部下だった。自分の任務に誇りを持ち、どんな状況でも決して弱音を吐かなかった」。元海上保安庁特殊警備隊長の坂本新一さんは、主任航海士の性格をこう振り返る。
主任航海士は、坂本さんが海保を退官した平成12年までの約3年間、第5管区海上保安本部で部下として勤務。密輸や密漁などの取り締まりや、人命救助などを主な任務とする海上保安官として一緒に働いた。
一方、主任航海士は今回の映像を撮影・編集した石垣海上保安部を管轄する第11管区にも所属したことがあったという。坂本さんによると、転勤が頻繁にある幹部級職員と異なり、下士官級が管区外に異動することは異例だ。
「下士官級の彼が、日本の領海警備で特に重要な位置にある11管に異動したのは、勤務成績が突出して優秀だったからだと思う」と坂本さん。映像流出は、強い正義感が故の“告発”だったのか-。捜査の行方が注目される。
航海士は流出事件の発覚後、同局側と電話連絡をとり、神戸市内で取材に応じた。
映像について航海士は「海上保安官であれば、いつでも見られる状況だった。機密ではなかった」と強調。一部の政治家が機密扱いをしていることを疑問視し、流出させたという。
航海士は「自分は国家公務員として、政府に対して仕事をしているだけでなく、国民のために仕事をしている自負がある」と説明。その上で「海保の組織に不満があるわけではない。(流出させたことへの)批判は覚悟しており、(その是非は)国民一人一人が判断することだ」などと語ったとされる。
航海士は落ち着いた様子だったが、「同僚や上司に大変迷惑を掛けて申し訳ない。職を失うことは覚悟している」とも話し、涙を見せる場面もあったという。
日本、大学評価でアジア1位を中国に
奪われる 東大26位 世界ランク
英教育専門誌、タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)は16日、今年の「世界大学ランキング」を発表、上位200校に入った日本の大学は昨年に比べ、11校から5校に減り、6校がランクインした中国(香港を除く)に国・地域別順位でアジア1位の座を奪われた。
日本として最高の26位に入った東京大(昨年22位)も、昨年まで維持したアジアトップの座を21位の香港大(同24位)に譲った。日本の地位低下の理由の一つとして「高等教育における最近の財政削減」を挙げた。
東京大以外では、京都大が57位(同25位)、東京工業大が112位(同55位)、大阪大が130位(同43位)、東北大が132位(同97位)だった。
1位は7年連続でハーバード大で5位までを米国が占めた。中国の最高は北京大の37位。(共同)
教員養成を6年で行う案が出ているが、ホントにするつもりなのだろうか。
少し疑問に思うことは、小学校や中学校の教員を全員が大学院まで出ないといけないのかということだ。短大でも十分だ。
現在でも、短大を出て教員になって頑張っている人は多い。
教員の質は教科専門性及びコミュニケーション能力ではないのか。
この教科専門性は、小学校、中学校ははっきり言わせていただいて、高校までの知識量で十分できる。
実は高くはないのだ。
嘘だと思うなら、近くの小学校の先生に、センター試験レベルの問題を問うてみるとよい、ほとんどの先生が答えられないだろう。
中学校の先生にも聞いてみるとよい。例えば、数学の先生に、センター試験数Ⅱの問題を持ってい行くと、忘れているというのも手伝って、問題の3割も解けるだろうか。
お前はどうだ、と言われそうなので、はっきりと断っておく、新聞に出ていたセンター問題を解いて、専門教科は5割取れなかったのだ。
情けなかったが、これが現状だ。
しかし、コミュニケーション能力は、経験とともにかなり高まっている。ただし、体力は落ちていく一方だが…。
このように、大学院まで出て、何を勉強するのか。高校で教えるとなるとかなり有効かと思うが、実際教師は現場で鍛えるのが一番育つ。教育実習のことを言っているのではない。教育実習は2週間でも十分だ。センスのある奴はなしでもいいと思う。教育実習はやはり実習、周りに守られ行うため本当の苦労はほとんどない。
現場で子供たちを目の前にして、子供の生きたエネルギィーとぶつかって初めて開かれるものがあるということだ。
しかし、教職員大学院は充実させてもよい。ただし現職教員は休職していくとなるが、何らかの生活ができる状態にまで持っていくべきだ。休職し給与はなし、では行く気がしない。給与も全額ではなくとも7割は必要だ。
それは、それぞれの学校の講師たちの採用試験の結果を見て思うのである。
情熱のある講師は採用されていないじゃないのかな、と。
絶対必要だと思う講師の方は不合格、片手間にやっているとしか思えない方が合格。
この事実は何なのだろうか。
人物重視の採用に穴があるように思える。それは採点基準と採点する側の人間力にあると思う。
採点基準があるのはわかるが、情熱のある教師の気持ちや言動は採点基準外に放り出される現実があるのではないか。
例で示すと、論文で、!を使うということはあり得ないし、使えば試験では減点対象にもなりかねない。しかし人間どうしても、強調したい気持ちを抑えられない時がある。それは人々、目の前にいる生徒に魂からほとばしるように訴える時である。つまり!なのだ。
しかし、論文では!はありえない。
これを無視すると減点。
情熱をそのまま出しきってしまうと、面接では ! と同じ運命になるのかもしれない。
面接の採点基準はどこに出しても文句のつけようのないお役所基準ものであればあるほど、!は必ず撥ねられるのだ。
次に本当に面接官は人間をみる見識と立場があるのかだ。失礼な言い方をしてしまったが、実際委員会や管理職はイエスマンを好む。言い方は変だが、どうしても学校社会は上意下達なのだ。それは法律にも示してあるし、現にそうなってきている。例えば東京都などは職員会議で多数決はもちろんのこと、教職員の意思を問うための挙手を禁じている。それに意を唱えた校長がいたが粛清されたと聞いた。
そういう中で育成された管理職や委員会の方が面接官であれば、本当に情熱あふれる教員を高く評するか疑問だ。
組織からはみ出すぐらいの元気があるやつでなく、無難にそして冷静に問題を処理でき、かつどれだけ文部省や県が出している通達に精通している人間か、それを優先するだろう。
一見教員に必要な資質と思われるかもしれないが、それは管理に必要であって、目の前の生徒と対峙する教員には別ものが必要だ。
何度も言うようだが、私は県の困難校、だれも嫌がる誰でも知っているある学校で担任をしていた。
やはり想像を絶する昼夜を問わず指導に走り回る厳しい現実の毎日、学校の規則を盾に生徒を指導することはもはやできない。学校の規則どころか日本の法律をも学校の中で毎日守られていないのだから。
しかし、不思議なことに、卒業してみてわかったことだが、誠心誠意、身を粉にしてきたことは通じていた。それは彼らが開いてくれた同窓会の席でわかった。
その誠心誠意とは、管理職に知れると都合が悪いこともある。ここで書くのは憚るが、管理職も委員会に知れると都合が悪く、新聞沙汰になることもせざるを得ないことで不登校に関する困難を乗り切ってきたことを私も見てきた。
話は本題からさらにそれるが、よく採用試験の質問の中に「居眠りしている生徒をどう指導しますか」というのがあるが、笑いが出てくる。
まあ、あの時の教職員が答えるなら、一応声かけはするが寝ているならそれ以上しない。3時間目に入ってまだ寝ているなら、3人の教師で担いで邪魔にならない教室に移動させて寝かす。教師のメンツをかけて昼食前には厳しく起こすが、それが時々暴力や、他の生徒への迷惑や校舎破壊につながる。
「@えっ」と思われるかもしれないが事実である。なぜならば、彼らは机の上では寝ない。教室の後ろの床でジャージを枕に寝るのだ。しかも、爆睡だ。その中で授業は進められる。
彼らは夜に暴走しとりあえず朝きて学校で寝るのだ。昼食の時になっても起きてこない時もある。終学活が終わっても寝ているときがあった。
これだけ書けば、教員は何をしているのだ。どういう指導をしていた。保護者対応は?と責められそうになるが、事実を書く。
しかし、その時はそれが精一杯の対応だった。裏を返せば一日終えるのに必死で、他の生徒を守るのに必死だった。
もし、あの学校の教員が正直に面接を受けるとなると、校長以下全員不合格だろうと思う。
話はだいぶんそれたが、教育への情熱は面接官には見えない。そこで教員採用試験に対する疑問が湧くのだ。
しかも、今や、面接の攻略本が出ていてそれを暗記したもの勝ちという事実があるのには、正直現場の人間としては教員採用に失望感を禁じえない。
もっとはみ出し野郎がいてもいいではないか。
長年教員として身を粉にして頑張ってきた人ほど、この人物評価の教員採用試験の質問に対してまじめに答えれば不合格の回答になるだろう。
最近職員もおとなしくなって、学校も面白くないとおもったら、この人物重視、いや人物規制の教員採用試験のせいだな。
昨日、授業の初めに、生徒たちに「秋風が吹くと…」のあとは何が続く?と聞いてみた。
ある女生徒の答えは「さみしい」だった。
理由は?と尋ねると、落ち葉が落ちて、クラブでは3年生がいなくなり、何かさみしいの、と言っていた。
確かに、春は桜散るだが、春は何か始りという感がある。しかし、秋は何か終りに近づいていく様子が見える。
秋の休みの朝、私の人生はいったい何だったんだろう。
こんな、思いを持ちながら今、ジュピターを聞いている。平原綾香だ。
歌詞の中に、「愛を学ぶために孤独があるのなら、意味のないことなど起こりはしない」と一見意味のわからな
い歌詞があるが、これは考えれば考えるほど深い意味があるように思う。
愛を学ぶために人間は生きていることを前提にした歌詞と思える。
しかし、人生には想像を絶する試練や乗り越えそうにもない壁が待っている。途方に暮れ、さみしさに襲われ、
孤独に耐えなければならなくなる。しかしこの歌詞は、その試練は意味がないものではない!と訴えているの
だ。
人間の魂を励ましているように思える。人間よ、頑張れ。目的地にたどり着くまで。
優秀な教員の選考・確保
…
特に、正規教員と同様に教壇に立っている臨時的任用教員や非常勤講師、また、他道府県で現職の教員として一定の勤務実績を持っているものなどは、その実践力を活用していくことが、極めて確実かつ重要な対応となってくる。
現在、都の公立学校においては、産休・育休代替教員として任用されている臨時的任用教員や非常勤講師が、限られた任用期間ではあるが、教育活動に携わっている。この中には、優れた業績により学校長等から高い評価を受け、正規教員としての採用を望まれる者もいる。
しかし、現在の選考方法では、任用期間や任用時数に一定の勤務実績を持った臨時的任用教員と非常勤講師を対象に、一次試験の択一試験のみ免除している状況であり、このような教職経験・実績を採用選考に生かす工夫は充分であるとは言いがたい。
そこで、実際に学校現場で活動している様々な人材の実践力や教師としての適性を評価し、正規教員として採用することができるシステムの確立が必要となってくる。
さらに、現在でも実施しているが、豊富な社会経験に裏打ちされた、実践的指導力の発揮が期待できる社会人枠の拡大についても考慮する必要がある。
また、教員としての意欲、情熱、適性や資質を備えた優秀な人材を確保するために、従来から人物重視の観点に立ち、個人面接では予め準備してきた学習指導案による模擬授業を盛り込むとともに、対人関係や協調性を見極める集団活動面接では、民間の人事担当管理職を面接委員に登用するなど、多面的かつ多角的な面接方法による選考を実施している。
しかし、受験者が受験対策を積んでいる傾向があり、面接時の回答がパターン化されてしまい、差が付きにくくなっていることや、面接における評価方法・観点がわかりにくいという声が面接委員から寄せられている。
このような状況で、いかに教員としての適性を見極める選考を実施できるかが人材の確保に当たっての課題となっている。
以上
なるほどよく分かる。 面接や場面指導の攻略本的なものを徹底して学べば十分受け応え出来る。
私もその手の本を手に取り調べてみた。そして受験生に聞いてみたところ。7割程度同じ問題が出ていたというではないか。
これでは攻略力を測ることは出来たとしても、人間性、人間味を観ることは難しい状況だろう。
つまり受験技術の長けた人を採用することにもなる。
その方面の人材も確かに必要だが、特に小中は人間味あり、だろう。
それを証明しているのが、期限付き講師の活躍と採用状況だ。すばらしい人材が採用試験に通らない。
本人の努力不足もあるだろうが、こういうのを目の前の事実として知っている。部活動で講師の先生の熱心な指導の結果、上位の大会に出場することになった。当然、引率者として、子供たちからも絶大な信頼を置いているその講師の先生が必要だった、その先生は採用試験と日程が重なったので迷ったが、結局大会引率を選択した。
これは本人の判断に任せるべきことではあるが、私はその先生をよく知っていたので、その先生なら子供たちを選択したこともうなずける。愛情豊かで、非常に指導力のある人だった。
有能な講師の採用をどのようにシステム化するか。人材確保という点で大きな課題である。
しかし、私は教員だ。ここで敢えてこのコメントに反論を書きたい。
そもそも「学習意欲のない」人間を何故救わなければならないのか、理解に苦しむ。
このことに関しては、単純に公務員は全体の奉仕者であることがあげられる。
そして、学習意欲のない青年=人間として可能性がない、とはならないはずだと言うことが大きな理由だ。
勉学の意欲なく、たとえば授業放棄に近い生徒が公立高校を受験したが失敗したとする。残っているのは私学だけ。しかしお金が払えない。このような状況の時、我々教員の心の中に浮かぶ思いは次の2つだ。
①「おまえがさぼってきた結果やしかたがない、どこなと行け」
②「この生徒の可能性が開かれる進路先を可能な限り見つけ出そう」
そして、行動パターンは2つ生まれる。
①事務的に公立定時制か、通信制に持っていく。ただ、一生懸命に対応しているよとの姿勢は見せて置く。
②手間暇かけて時間のぎりぎりまで可能性を探し続ける。 結果は別。
どちらも後悔が生まれる。
もう少し良い方向に持っていく術があったのではないのか。私たちは何をしていたのだろうと思うのだ。
単調だが、毎年この繰り返しだ。
そして、極めつけは、卒業した生徒のその後を見ることだ。全く学習の意欲がなかった生徒がぐーーーんと伸びて数年後に現れることだ。その時ほど中学校のあの姿はなんだったのかと思う。
だから、中学校ですべてを決めつけて、学習意欲のない人間を将来も可能性を持たない生徒と扱って支援、援助をやめることは日本の大きな損失と考える。
コメント
そもそも「学習意欲のない」人間を何故救わなければならないのか、理解に苦しむ。大体にして教員たるもの、単に授業をするだけではなく、当人の学習意欲を引き出すのも重要な仕事ではないのだろうか。
> それが仕事ではないというのであれば、そんなことは塾の講師がすればいいことであって、学校が果たすべき役割を果たしていない「(法的に言う)善意もしくは未必の不作為」ではないのか。
> 率直な現状報告は高く評価するが、それに対する対応はあまりにもお粗末であり、当該教員の力量及び意欲の不足、と糾弾されても擁護しようがないと感じる。
>
> そもそも、それなりの努力もしないために公立校に不合格になるような生徒に対し、公的な支援を行って私学に通ったとして、一体どれだけの成果が得られるのであろうか。
> また、努力もせずに親や生まれ育った環境のせいにする輩は、例え私学に通い、社会人になったとしても全く使い物にならないと考えるのは、厳しすぎるのだろうか。
> 確かに親の所得による教育の格差に基づく、貧困の拡大再生産は絶対に阻止すべきところである。しかし、肝心要の勉学への意欲無くして、それを語ることは全くの誤りであり、同情心を惹いて怠惰に走ることは愚の骨頂と考える。
教員生活も終わりに近づくと、消化試合になってくるときがある。消化試合の合間に自分の生活を省み、自分の子供の教育を省み、日々の生活に埋没する。学校に行って、なんとなく自分の机に向う、なんとなく仕事をこなす。思えばこんないい日はないよね。困難校であれば、なんとなくこなすなんて余裕がない。毎日が忙殺寸前、忙殺前夜である。
それはそうと、来週、我が子のことで、学校から呼び出しがあった。成績不振、留年するかもしれないとのこと。これには参った。担任の先生から電話があった時いろいろ感情が動いた。
書き出してみると
・担任と学年主任の親への対応が違うじゃないか。どちらを信じたらいいんだ。
・担任の言い方がやけに冷たい。うちの子への愛情が感じられない。
・いやな態度で対応されるんだろうな、きっと。上から目線か。
・うちの子留年さしたら、俺の学校があるこっちの地域からあんたらの学校に生徒を送り込まんぞ。
まあ、ざっとこんな感じで心が動いた。
よく見ると、ほとんどが、事実を確認した話ではなく、不安から出た自分の妄想との取っ組み合いだ。
でも、私は生徒との面談の時、この上から目線を多くやってきてたなぁ。特に若い時の進路面談などは、若いのに年上の親に対しても自分の進路実績を上げることを第一にガンガンと自分の意見を押し付けてきたな。
これには、今は自分で考えてもヘドが出る。
また、生徒が悪いことをしてし、親とともに指導する時も。
「親は何をしとるんだ。あんたらの育て方が悪いからこうなったんだろうに。」悩んでいる親に寄り添うこともなく、ただ、突っぱねて、親も子もぎゃふんと言わせなければ治らないんだ!などと考えて実行していた。
しかし、今は逆の立場にある。そして、そうなって初めてわかることがあった。
教師から責められたり、突き放された言い方されるのが怖いんだ。
言い返すにも、感情を悪くされるとよけいに相手教師から押さえつけられるかもしれん。身動きが取れない。
子供の将来、進路を人質にされているみたいで、逆らえない。
今まで、自分がしてきた所業を自分で味わうときが来たようだ。
私には寄り添うという感覚が足らなかった。
後悔する。
あと残っている教師生活で、どれだけ挽回できるかだ。
本気でやるしかない。悔いない人生を過ごしたいからな。
ある特別支援学校の中堅教員の2人が話をしていたのを聞いた。「毎月2回は学校に行っている。」休日出勤が困ったものだと言いたそうな会話内容だった。
「はあ?!?}それがどうした、と心の中で思ってしまった。
ある都市では勤務管理をタイムカード制にすることを試みるらしい。ある面賛成だ。
そして、教員調整手当を止め、管理職は別にして残業手当を出すべきだ。
もちろん、公立学校教員すべて同じ給与にしてだ。今は特別支援と高校は上乗せされ、高いのだ。
中学校で頑張っている教員達はかなり厳しい労働条件にあるのは明白。給料を特別支援学校の2倍払ってもまだ足りないくらいだ。
なぜ、勤務条件に差があるのに給与にそれ相当の差がないのか。
もし、タイムカード制を導入するなら、学校別に平均勤務時間状況を公表してほしい。
世間では障害児に対する教育は大変だという認識があるのか、養護学校つまり特別支援教育に従事する者の給与は高くなっている。県にもよるが、小中より10パーセント高いところもあるのだ。
どう考えても、どう逆立ちして考えようが、寝ころんで考えようが理由が分からない。
特別支援教育の方がはるかに様々な点で融通が効き楽なのだ。しかも特別支援学校では教師1に対して生徒2の割合になっている。教員人数が多いので一人あたりの仕事量は一般校に比べ比較的少なくなる。テストの採点だけを考えても、いわゆる採点地獄はない。
だいたい一般校の教師は毎日あわただしく働いている。例えば、保健室における養護教諭にしても、学校の中核を担い、今日非常に仕事量が多くなった、。不登校生徒の保健室登校から始まって、いじめ、いやがらせなどの相談、さらにはやんちゃな生徒も授業中構わず保健室に来ることが多い。その対応の中身はもはや世間の常識を遥かに越えている。やんちゃな生徒が5、6人押し寄せてきたら、耐えきれない重圧とともになんとかやりこなさねばと心身ともに疲れ果ててしまう。しかし、特別支援学校の養護教諭にはこの重圧はない。
また、担任など責任を担う教師のプレッシャーは計り知れない。ガム、たばこ、携帯などの不要物、器物破損、嫌がらせ、いじめ、授業妨害、授業抜け出し、違反の服装・頭髪。
これらの指導は日々の日課であり、この合間を縫ってようやく教科指導が出来る。これらの指導が的をはずれたり、後手に回ると生徒や保護者からのブーイングが待ち受ける。学級崩壊にも繋がるのだ。
さらに、中学校は部活指導がなぜか勤務は5時15分までなのに堂々と6時まである。よくしのいでいるなと思うほど仕事は多い。
今、挙げたややこしい指導は一部を除いて特別支援学校にはないのである。
さらに、今日的課題に挙げられる、学力低下論争や格差論争などには特別支援学校は寄っていない。つまり世間からのプレッシャーの外に特別支援学校は存在しているのだ。
例えば、学力向上のため塾と共同し取り組みをするとか、土曜も授業をするとか、習熟度、少人数を考えるとかはないのである。
だからかどうかは知らないが、一般校と同じ教科書を使用している聴覚支援学校は概して学力は一般校よりかなり低い。
障害ゆえに低いのか、私はそれだけとは思えないのだが。上記にもあるようにプレッシャーがなく、そこまで努力する必要性が教師側にないからである。これには反論を示す人もいるかもしれないが、それなら実態を見てから言ってほしい。
例えば、一般校は教科研究を行っているが、特別支援学校は行っていない。
同じ教科教員同士の横のつながりが見えない。
一般校では同じ教科の教員の強いつながりがある。それは必要だからだ。指導内容の相互の確認から、進度の確認、テストの打ち合わせ等である。
また、教材や指導にようするものがそろっていないことも多い。
我々の認識を変え、特別支援教育に重点を置くのは良いが、給与は小学校、中学校と同等にすべきだ。この考えは実は多くの一般校の教員は賛同している。
さらに、浮いた給与の予算で困難校に教師を重点配置せよ。
入学金:5,650円 (約6千円)
年間授業料:118,800円 (約12万円)
その他に必要な費用
諸費用:平均325,000円 (約33万円)
内容:PTA会費・生徒会費・教材費・制服・学用品代・旅行積立金・通学費など
学外費用:平均132,000円 (約13万円)
内容:学習塾・家庭教師・部活動費・図書費など
この赤の部分が一律援助されるのであろう。
しかし、私学はこうだ
入学金:平均330,000円 (およそ20~40万円)
年間授業料:平均320,000円 (およそ25~35万円)
その他に必要な費用
諸費用:平均450,000円 (約45万円)
内容:PTA会費・生徒会費・教材費・制服・学用品代・旅行積立金・通学費など
学外費用:平均176,000円 (約18万円)
内容:学習塾・家庭教師・部活動費・図書費など
※入学時の寄付金(10~50万円程度)は含まれていません
地方によって授業料は違うが、上記は安い方である。都市部に行けば年間の授業料は80万に上る所も普通にある。
だから12ないし24万の援助が私学で出るというが、焼
け石に水と言わざるを得ない。
公立学校に行けない成績の底辺層つまり所得も底辺
層の生徒達はどうなるるのだ。
一人の教師の影響力は自分が思っているより遥かに大きい。
このことを実感したのは、生徒が同窓会を開いた時だった。
久しぶりに「先生!」と呼ぶ声、生徒の成長した姿。もうちょっとこうしてやればよかった…、と後悔の念。
今まで務めてきた学校のいろいろな学年の生徒が同窓会を開く。そこに呼ばれるとやjはり嬉しい。
しかし、後悔と何か知らぬ後ろめたさが出るときがある。
それは一生懸命に生きていない私。しかし、「先生!」と声を掛けてくれる卒業生たち。その真摯な声に対しての後ろめたさだ。
だから、私はもう一度真摯に生きる。卒業生たちに負けぬよう。「おまえらに負けてたまるか」。
もう一度私の願いを思い出すのだ。教師になった時の願い。
それは一言でいえば「励ましたい」であった。なにを置いても生徒達を励ましたいという純粋な心からの声だ。
私はその声(サイレントコーリング)に耳を傾けて、一点を見つめ進もう。
これを話題にし始めると、私は引きこもりたくなる。田舎の山の上の大学だからだ。確かに京大の人もいる。しかし、京大だから管理職になっているとは言い難い。京大出身で知っている人は2人だけだ。いずれも50代だが管理職になっていない。
管理職になるにはなるだけの器がいる。 …沈黙。 こともある。
管理職はなぜか教科で決まる率も多い。
「えっ」 不思議でしょう。もし、管理職の学歴を見せろ。と言われると、嫌がる人も多い。
管理職で一番多いのは体育だ。体育大学出身者。なぜか体育科は中体連、という組織があって、そこから管理職への登用が順次促される。他の教科ではこれほどスムーズに管理職にはなれないが、体育科だと道は開けているのが実情と言える。
頑張れ!平教員。
生徒諸君はぜひ頑張ってほしい。
先生方は体を壊さぬよう、勝負欲のとりこにならぬよう頑張ってほしい。
勝つと思えば負ける。
負けて元々、後は天に任せる。
負けても選手を責めるな、指導してきた私の全責任。
負けて言い訳言うな、潔く相手を褒め称えよ。
可愛い生徒を勝ち負けで見定めるな。
愛情いっぱいに包んでやれ。
試合中の最大最高のアドバイスは「俺はお前達を愛している」
こんなこと言えばセクハラだが、試合中のど元まで出かけている。
そんな奴らとの夏の思い出は、文字どうり永遠だ。
お金では味わえない感覚と感動の夏の真っ最中。
頑張れ、お前たち。
是非のせてみたいと思った。
そして、こんな教師に教わりたいとも思った。絶対採用してほしい教師だ。
教員採用試験対策用をはじめて書きました。元編集の仕事をしてたとは思えないほど、どう書いたらいいのかわからず書き込ませていただきました。アドバイス等々お願いいたします。
東京都の過去の出題を参考にしました。
どうぞよろしくお願いします。
今、学校教育においては、児童・生徒に生涯にわたり学び続ける力をはぐくむことが必要です。
1このことについて、社会的な背景やこれまでの経験などに基づき、理由を明らかにして、あなたの考えを述べなさい。(700字程度)
21で述べた考えに立って、あなたは教師としてどのように実践していくか、志望する校種・教科等に即して、具体的に述べなさい。(700字程度)
「こんな世の中じゃ、夢や希望なんて持てないよ、頑張って勉強しても意味ないじゃん」私が実習先の生徒から聞いたセリフ。「将来は何になりたいの」と質問しても、「どうせパートでしか働けない」、「なりたいものなんてない」などと、後向きの言葉ばかりが返ってくる。また、「いい学校に行っても就職できないんでしょ」、「リストラされちゃうんでしょ」と日々メディアで流れているような情報を簡単に使ってくる。子どもたちは、学ぶ意味を理解できないまま学校に通い、授業を受けているようにみえた。子どもたちを取り巻く環境は、ほとんどのものがすんなりと手に入る豊かさに加え、簡単にさまざまなメディアの情報を手にいれることができる。そのために、自ら考えることをせずにすべてを鵜呑みにしてしまっているようだ。
私の学生時代は、ただ学校が楽しくて通っていただけのようなときもあった。しかし、学校生活を通じて自分自身に目標ができてからは、勉学に励まなかったことを後悔した。日々の生活に学ぶことが数多くあり、やらなくてはならないことがたくさんあることにも気付かされ、学ぶことの大切さ、面白さを実感した。
現在、社会はめまぐるしくさまざまな変化を遂げている。その変化に対応していくためには、自身に基礎知識・学力を身に付け、自ら考えて行動できる力を持っていなければ、ただ変化に巻き込まれてしまう。社会の変化にうまく対応していくためには、ベースとなる知識や学力が必要だ。そのベースがあってこそ、自らの力で判断し、自分を信じて前に進むことができる。
私は、社会科教諭として実践していきたいことが2つある。1つめは、私が編集者として社会に出て学んだことを生かし、一歩踏み出す勇気と視野を広げることの大切さを伝えたい。編集者として働いたときに私が「知りたい」と思った興味や関心は、自らを意欲的に学びの道へ引き付け、それを知識と自信に変えてくれた。どんな興味や関心であっても、自らの視野を広げ、学ぶ欲求を高めてくれることがわかった。そして、学ぶことによって自信がつき、視野が広がることによって様々な目標が出てくる、そうするとより学ぶ欲求が高まるようになるという好循環が生まれる。どんなことでも子どもたちが持った興味関心を理解し、興味や関心から夢や目標を育む種まき、水やりをしていきたい。
2つめは、歴史や地理に即して、現代の社会の動きとの関連性や問題点、改善点などもともに考えさせていきたい。学ぶことの大切さや面白さを理解した子どもたちは、生活に直結した問題提起には興味や関心が持てるようになるはずだ。子どもたちの興味や関心を一気にひきつけ、生涯にわたって取り組める学習課題を見つけさせたい。また、社会科を学ぶ中でさまざまな情報を扱う機会が多い。その中でも、メディアの情報をすべて受け入れるのではなく、自ら情報を選べるような力をつけられるようにしていきたい。
私自身、まだまだ学べること学ばなくてはならないことがたくさんある。学びの面白さを伝え、さまざまな可能性をもつ子どもたちと一緒に学んでいきたい。そして、自らの力で社会の変化に対応できる力を身につけさせていきたい。