公立学校の真実
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『ルポ 教育困難校』の著者の朝比奈なを氏は、公立高校の社会科教諭として約20年勤務した経験を持つ。その朝比奈氏が教育困難校の実態をこう述べている箇所がある。
生徒の苦手な教科のトップは英語だ。教員は基礎からの内容を何とか身に付けさせようとさまざまな工夫をしている。
曜日や月の名称、各国の国名など基本的単語が正しく書けるように何度も繰り返し練習させ、生徒が興味を持てるようにとファストフードなど彼らがよく行く店のメニューやパンフレットも教材にする。(中略)
それらを行ううちに教員は深刻な問題に気付く。
商店や商品の名前にこれだけ英語などが多用されているのに、実は「教育困難校」にはアルファベットを正しく書けない生徒が相当数存在するという問題だ。特に、bとd、mとn、qとgなど似た文字を書き分けられない生徒が多い。
全く勉強をする気がなく覚えようとしない生徒も少しはいるが、先天的な学習障がいを持ちながら、今まで気付かれず何も訓練を受けなかったからという理由がほとんどではないかと推察できる。
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この学習障がいは、小学校低学年段階で発見され支援があれば、普通の人のように回復すると考える人もあるらしいが、現実はそう甘くない。
小学校低学年段階で学習障がい(LD)の診断をもらい、あらゆる支援を受けて中学校に上がってきても、上記に書いてあるようにpとbなどの区別がつかない生徒もいる。また、左右の判別がいつまでもつかない生徒もいる。
では、知的に低いのかというと、そうでもない。もともとLD学習障害は、知的の要素を入れない障がいだ。
例えば、私ところの学校では、左右の判別がつかなくとも、通級指導教室に通い、理科では80点もとることが出来、生き生きと学校生活を送ることができているS君がいる。また、テストのときに、フリガナを付けた問題用紙を使用しているT君は、コミュニケーション能力があり、友人も多く、部活で存在感を発揮できている。
これらの例は、学習障害を持ちながらも、それ相応の支援を受けながら、学校生活を楽しく過ごすことが出来ている例だ。
それは、学習障害が和らいだからではなく、自己肯定感を持続することができる支援を受け続けられたからという方が大きいだろう。つまり、2次障がいを避けることが出来た例と言えよう。
一方、何の支援をも受けることができず、ただひたすら、小さい時から、「なぜ、読めない、書けないの」「努力不足だ」→お前はダメ という叱責を、親や先生から受け続けている子もいる。
そのような子は、自己肯定感が低く、最後には不登校になるか、荒れて問題行動を多発する生徒になる場合がある。
大阪にはそれは多いと思う。なぜなら、発達障がいに対する支援が極端に少ないからだ。中学校の通級指導教室の数を他府県と比較すればすぐにわかる。
時代の要請に応えることが遅れた地域の一つと言えよう。それゆえ、教師の負担は増え続けている。
私どもの学校では、学習障がいのある生徒には、いわゆる合理的配慮をしてる。
例えば、先ほど出たテストにすべてフリガナをうった問題用紙を用意するとか、テスト時間を少し伸ばすとかである。現在、このような配慮は高校入試でも同様に行われている措置であることを明らかにしておきたい。
高校なら平和な学校は、各教科研究室があるので、好きなことができる。教材研究も十分時間はあるし、趣味もその部屋でできる。一週間に15時間ほど授業をすればよいから、ゆったりと時間が流れる。放課後の部活動も体育科の先生たちが中心で見ているのでそんなに見なくともよい。
平和な学校では、教師になってよかった思えるひと時を過ごせる。
中学などの困難校に行くと生活は一変する。
朝起きると、必死で気合いを入れる。まず、朝が早い。部活の朝練があるからだ。自分が遅刻すると生徒が練習できないし、教師が遅れていては示しがつかない。
8時30分に朝の打ち合わせが始まる。一日の流れを把握しなければならないので、気を抜けない。私が職員全体に伝えることもある。さあ、朝学活に行く。この時が一番足取りが重い。服装、頭髪、不要物、すでに頭の中は憂鬱そのもの。次に、遅刻者への対応やまだ来ていない生徒に電話する。
その後は自分の授業をすればよいのだが、空き時間は、授業に入らない生徒への対応に追われる、さらに保健室登校の生徒への対応もする。
戦いは給食と掃除。何が起きるかわからない。ここでいじめが多い。だから、職員室には昼休みでも帰ることはない。
これを乗り越えると部活が待っている。部活も実は戦いだ。練習中に邪魔をしに来るやんちゃな生徒たちがいる。部員の用具をとり勝手にプレーするのだ。また、放課後は部活以外でも、生徒指導や補習に追われる。
すべての生徒が下校しても終わりではない。心身の回復を待ち、打ち合わせ後、家庭訪問だ。重い家庭訪問は、その家へ行くまでに逃亡したくなる。しかし、逃げるわけに行かない。時には親が返ってくる時間帯まで学校で待つ。それが夜10時かもしれない。
教材研究はいつするのか。職員室から教科書を持って階段を上り教室につくまでの間だ。
さて、高校無償化は60%が推進を促している。これは首長が現場の実情を知らないからこういう結果になったと言える。
日本金融公庫の調査では、小学生以上の子供を持つ家庭の教育費(在学費用)が、2010年度は平均で198万2千円となる見込みだ。年収の37,6%に達する。前年度の33,7%から上昇し、比較可能な2000年度以降で最高となった。
ここで注目したいのは、教育費用の割合は、年収200万から400万未満は56,5%に対して、年収800万以上は27,2%だということだ。しかし、この数字だけを単純に比較するだけでは実態は見えない。在学費用は年収200万から400万未満は166万7千円だが、年収800万以上は237万8千円と出ているからだ。
つまり、年収の低い家庭は教育費を削っていてもさらに家計に教育費が占める割合が高いという格差だ。
中学校の現場で切実なのは、年収の低い家庭の進路だ。
年収が低い=教育に費用をかけられない(塾や習い事に行けない)。さらに進路決定時期になると、この生徒たちは私学に行けない。この2重苦が襲うことになり、希望が失われ暗闇の中に突入する。
しかし、我々教師などの年収の高い家庭は、別に公立高校無償化にしなくとも全く平気だ。
年収で7、8百万あれば中学からでも私学だって行かせられる。この格差を無視して、財源を一律公立高校無償化に使うのは無駄そのものだ。
我々教師仲間は、例え自分は公立学校に勤めていようが、自分の子供は中学校から有名私学に行かせている者も多い。私も2人とも子供は、高校は私学だ。全く必要のないところに税金を投じるバカな政策は辞めてほしい。なぜなら本当に困っているところに投じることが出来なくなるからだ。
現場では、切ない気持でこの格差と格闘している。もし、彼らの家庭が学費を払える力があるなら、生徒は希望が涌き、学校でも元気になり、教室を抜け出して邪魔をすることも少なくなる。そんな彼らに、少々の慰み事を言えても、教師が裕福だから伝わらない。
彼ら底辺層を救う手立ては希望ある未来を生みだすことだだ。だから、是非そんな彼らこそ、私学でも公立でも高校あるいは大学を無償化にすべきだ。なぜそれが首長に分からないのか。それは、現場での底辺層の子の可能性を知らないからだ。さらに、首長自身が裕福で底辺層の痛みが感じとられないからだ。
その層の生徒は最終私学か、定時制だ。経済的にはとても私学に手が出ないので定時制、通信制に収まる。
公立高校の無償化よりもこの層への支援が何十倍も大切だ。この層に進路への希望を持たせることは日本の学校を健全化させる。なぜなら、この層が希望をなくし、やけを起こし、中学校でやんちゃするのだ。
彼らに私学に行かしてやりたい。私学に行けば変わることが出来る。いや、実際に変わった生徒を多く見てきた。クラブで活躍した生徒、卒業して大学に行った生徒などだ。
私、3年担任として、公立高校無償化は救いにもならない。結局、公立に行けるある程度出来る層への援助にしかならないからだ。
行政がすべきことに、教育の正常化対策がある。格差が開いた教育現場の中で、学級を30人の少人数にしても現在の問題点は解決しない。すぐやるべきことは、次の3つである。
①困難校を中心に教師の大幅増員。
財源は、教員の給与の7%削減だ。しかも、小、中、高、特別支援すべて同額にする。浮いた財源を持って教員を増やす。ただし、退職者の再雇用による増員が望ましい。なぜなら、費用は高額ではなく、いつ首を切られても差し支えつかえない人が多いからだ。
②教員の雇用体系の工夫。
教員の労働間に格差がある。特に、長期休業中だ。特別支援学校と小学校は、生徒が来ないので教員は仕事が極端に少ない。生徒が頻繁に来校する中・高に赴かせ、補習や生徒支援にあたってもらう。一般企業では考えられないが、特別支援や小には、夏休み中に30日ほど休む教員がたくさんいる。その方々の利用を考えるのだ。
③不登校や学校の授業に適応できない生徒を手厚く教育する学校の建立
不登校だけでなく、学校教育の範囲では背負い切れず、あとは警察のお世話になるだろう生徒を受け入れる学校を作る。一時的に手厚い指導で、教育を展開する。もちろん、そこで育まれれば、一般校に戻す。
困難校のありのまの姿を記しているサイトがある。それは、大阪府門真5中の保護者であったであろう、戸田氏のサイトだ。戸田氏の主義主張は横に置いて、記述されている実態と門真5中生徒を思う誠実なお気持ちに対し、純粋に感銘を受けた。また、当時の5中を広く市民に公開された校長先生にも敬意を表する。サイトの記述は、教員や生徒や保護者の目線から見たものだ。だから、三者の気持ちが的確に出ている。
ただし、これは2004年の実態である。
それでは
2/10参観:
一番酷かった授業崩壊クラスは勉強しようと忍耐の子が半数だけ
6時限目、2年生のあるクラス。在室生徒数男18人、女17人、合計35人で。
まず廊下で男子生徒が座り込んで騒ぎまくって、女の先生が一生懸命に中に入らせようと奮闘。戸田が立ち寄ったのは授業開始10分後くらいだったが、どうも開始早々からこういう騒動だったらしい。ようやく中に入ったが、教師に向かって悪態のつきまくり。
この子に限らず、他の子も、参観者という校外の大人が見ていても何ら気にする様子がない。平気で「普段通りの振る舞い」をしている感じ。
小柄な女性教師が能力豊かな人であるらしいこともこちらには伝わるし、一生懸命に授業をしようとしている熱意と情熱もヒシヒシと感じられる。痛いほどである。
しかし、席を勝手に移動したり、しゃべりまくったり遊んだりして授業妨害し続けている子が男で6人。女の子は授業妨害とまでは言えないが好き勝手なおしゃべりや化粧をしていたり自分の世界に入って全く授業に参加していない子が5人。
教科書すら出していない子が、戸田から見えただけでも男5人、女5人。机の中にすら教科書を入れていない子もいる。戸田がここで参観した20分弱の間中、何も出していない机に顔を突っ伏して寝ている女の子もいた。教室内はゴミだらけ。
クチャクチャとガムを噛んで騒ぐ茶髪の男の子は、ふいに開いている後扉から出て行った。戸田が廊下で問いかけると「保健室に行くんや」と言う。
少しすると別の男の子が「小便我慢できない」と言って出てすぐ戻る。
先生は戸田から見たら悲痛なほどの忍耐を持って、騒ぐ子ども達を注意しながらその合間合間に教科書を読ませたり説明をしたりしているが、とてもまともに授業が成立しているとは言えない状況である。
ざっと見てまじめに勉強しようとしている子が17人、授業に全然参加せず好き勝手にしている子が(授業妨害者数人を含んで)18人、という状態だった。
別のクラスではふつうに授業は成立しているものの、茶髪ピアスの男の子が自由に教室外へ行ったり来たり、教室内では先生の話全く無視でダベッている男子生徒が3~4人。
勉強しようとしている子の様子もまた、先生に劣らず悲痛な感じがした。2年生の新しいクラスになってからもう何ヶ月も続いているこの状況に堪え忍ぶしかないのだろう、騒ぐ級友に文句も言わず、先生に当てられた時以外は一言も口をきかず、じっと教科書を見つめ先生の声を必死で聞いている。
勉強しようとしている子にとって、この授業崩壊の時間は拷問と言っても過言ではな い。
この絶え間ない、そしてクラスとしての一体感のカケラも感じられない騒動の中でとぎれとぎれに聞こえる教師の説明によって「勉強が進む」ことは決してありえないだろうと思われる。
小学校の時から授業について行けなくなってしまって、中学校になっていよいよどうしようもなくなり騒いだり徘徊したりすることでしか自分の神経を保てなくなった子ども達も気の毒だが、普通に勉強したいのに拷問部屋のような崩壊教室で学力を付ける機会を奪われている子もまた気の毒である。
両者を分離してそれぞれに教育する試みを学年当初にされたが、隔離教室が維持できなくなり、やむなく「統合」されたという。
しかし、この両者を一緒の部屋で勉強させようと言うのは、これほどまでに差が開いてしまった以上、土台無理な話ではないだろうか?
(「両者」とは言っても片方の内部では教育困難度合いについてそれぞれ違うから個別個別対応が必要だが)
こういう状態で子ども達は2年生を過ごし3年生に送られる。3年でクラス替えがあるとは言え、新しいクラスがうまくいく保障はないし、2年生時代に損なわれたものの取り返しは簡単ではないだろう。
門真市の教育行政として、本当の意味での学力保障のための必死の努力がなされなければ、門真市の教育困難校(学年・クラス)の子どもの進学など進路選択が大きく損なわれたままになる。
*英語の視聴覚教室授業が3人の男性教師で行なわれている一方、この問題クラスでは女性教師がひとりだけ。2/10は教師の出張が重なって人手不足という事情があるとのことだが(校長先生談話)、このクラスでムリヤリ統合授業をするなら教師3人が必要ではないだろうか。
ホントは20人と15人にでも分けて別々の対応をするべきだと思う。(もしくは20人・7人・個々別とかも)
以上
赤で示した戸田氏の対応策は、いわゆる少人数・習熟度別授業に近い。初めの20人は授業が出来る。しかし、後の15人が集まれば、好きなようにさせておもりするなら別だが、2、3人の教師がいても学習を進めることはできない。実際、5中では、授業中徘徊する生徒を一つの教室に入れたが、無法地帯となっていた。だから、最後に示されている(もしくは20人・7人・個々別とかも)のように、すでに徘徊している意識の生徒を学習につかせるには個別対応しか難しい。
私も門真5中のような学校で勤務したが、授業中徘徊する生徒たちを見ていると、学校教育の限界を感じる。その限界を戸田氏も見たような気がする。
次に、2年生保護者有志の教育長への要望書を見てほしい。長いので、一部省略してある。
それでは
二年の学年主任の先生からは、授業妨害をする生徒達も所属クラスに一緒に入れるべきだとの見解をお聞きしましたが、授業妨害者の生徒達の騒ぎぶり、無軌道ぶりは尋常ではなく、先生は殆どその子らの注意、対応に追われ、まともな授業はできず、あちこちで、絶え間なく起こる騒動の中で、教科書の文字を追いながら、じっと耐えて座っている他にないと言う生徒達は、やりきれない気持ちでいっぱいになるのではないでしょうか。
普通に勉強しようとするだけで、これほどのストレスを毎日、毎時間強いられると言うのは子ども達の心身面にも悪い影響を与えていると思われます。
今回私たちは授業を妨害する一部の生徒たちに対しては、別室指導をおねがいしたいと思います。これは決して授業妨害する生徒達への差別でもなければ、授業を受ける権利の侵害でもないと思うのです。
なぜなら、同一の教室に入っていることは単に形式的な事にすぎず、授業妨害者の子ども達にとっても、実質的には何ら勉学を保障されている状況ではないと思います。言葉は悪いのですが、その子らは単に教室に閉じこめられているだけであり、それによるストレスを授業妨害と言う形で、普通の生徒や教師への加害行為に転化しているのではないでしょうか。
2004年2月25日
私は一市民として、赤字部分に共感する。(黒太字の部分は一部共感)
授業中徘徊している生徒に声をかける。「授業を頑張れ」。励ましの言葉だ。だが、時々、授業に入るよりどこか空いている教室で、話でも聞いたろか、という気になる。実際そうしたこともある。だが、大半は、今さら形式的に授業に入れてどうなるのか、と疑問を持ちながら、とりあえず入れる。
教室に入れることが出来たとしても、その生徒を学習に向けることは難しい。授業者側とすれば、教室でおとなしく寝てくれるか、雑誌でも読んでてくれているなら本来的ではないが、まだ良し。いわゆる邪魔をしだすと、注意するのに明け暮れ、外へ出てくれと念じてしまうほどだ。ほとんどの教師が体験する感情だ。
学校に来て、授業に全く入らず学習しない。するのは妨害だけとなると、学校とはなにか、彼らの学校に来ている意味はなにかと自問してしまう。徘徊する彼らの時間がもったいない。もっと有意義に、もっと力を伸ばせる場所があるのではないかと問う。
こういう生徒は門真市内に何人いるだろう。2010年現在で、10人、いやもっといるだろうか。そして大坂府下では何人いるだろう。兵庫、京都、奈良も合わせれば、すごい数になるだろう。
彼らの中にも、自分のしていることに本当は嫌気がさしてきているもの、力関係で仕方なく従っているものがいる。また、とりまく環境を変えることで、大きく変身できるものもいる。その生徒たちを支援する教員配置体制、または特別な教育機関が必要だ。目的は、彼らの本来的な姿をとり戻させ、本当の力を引き出すことにある。それが出来れば、学校に戻ればよいのだ。
我々教師はすでに崩れの段階とパターンを知っている。1年生に入学してきた生徒が、次第に徘徊する先輩の姿を真似しだす。2年の後半ともなれば、教師への暴言暴力、校舎破壊、授業エスケープ者が組織化し膨れ上がる。学校ではやりたいほうだいだ。ここまでくると、そこから抜け出させることは難しい。すでに、法を犯し自分を見失った行動に出るものもいる。彼らをストップさせるのはパターンとすれば、警察力だ。校内での暴力か、外でのバイク窃盗、暴走行為などで警察にお世話になり初めてストップがかかる。この流れが何年も続いている学校もある。
夜遅く指導に追われながら、崩れていくパターンにはまり込んでいく生徒を、どうしようもない思いで見ている時、力不足を感じる。学校教育の限界を感じる。我々だけで出来ることと、出来ないことがあるのではないかと。
今のままでは教師は、教室に入れるという形式的な仕事をしているだけと疑問を持つ。
このような日本の中学校の現状をほっておいていいのか、と常に思う。みんなは知っているのかと疑問に思う。それぞれの主義主張はあろうが、戸田氏のように学校の実態を如実に知り、憂う市民が多く出てきてほしい。今の学校・教師に対する批判は巷に存在する。しかし、一般的な激情論や昔、我々の時はこうだったと論じられても、的は外れている。今の実態に直接手を触れて初めて分かるものがある。
市民にはとうてい縁のない巨額の金を振り回して政治をしている人たちに、日々生きることに苦慮している市民やその子どもたちの気持ちが分かるだろうか。疑問だ。街や教育現場からの悲痛な声を吸い上げ、的確な策を打ち出さないと、日本の教師と教育は完全に壊死する。
今の私が出来ることは、彼らと話が出来るようになること。分かってやること。心配してやること。そして、一年生から、そういう芽のあるものをクラブ活動に入れ、スポーツを好きにさせ、熱中させて卒業まで辞めさせないこと。それだけだ。
困難校と呼ばれるところは、授業に入らず校内を徘徊したり、外で悪さをしたりする指導困難な生徒がいる。それも一人であればよいが、数人、十数人といるところもある。
教師は対応に追われへとへとになる。一人徘徊しているとそれをほっておけず、授業をしている教師以外の教師がその生徒の指導に付く。これが日常的になると、本来業務である教科指導の準備や行事、部活指導の時間がなくなる。そして、普通に頑張っている生徒たちへの教育がおろそかになる。
教育委員会は、物理的に手が回らないから、その学校の教員たちを正面から責めることはないが、保護者は違う、自分の子どもが、授業妨害の渦中にあったり、危害を加えられそうになると不満を一斉に教師に向ける。これによって、学校側は困難生徒の指導とその他の生徒の指導の板挟みになり、精神的にも肉体的にも無理を強いる体制が始まる。
年々、特別支援教育を受ける生徒が増えているが、このような指導困難な生徒の中には、支援を要する生徒たちが存在する。ADHD,LDはもちろんのこと、発達障害を持ち合わせた子供たちがいる。このような生徒たちを何とか支援する方法はないのか。
特別支援学校に行くと、手厚い支援が受けられるが、本人や親がそれを望まない場合が多い。
教室に入らない生徒たち全員が特別支援対象とは言わないが、それに匹敵する指導困難さがある。だから、教室に入らず徘徊を繰り返す生徒には、一人に付き一人の教員を配置すべきだ。そうでないと正常な教育活動は保障されない。
組合活動の活発な職場。
組合活動なんて化石化した職場。
上しか見ない、教育者を放棄した管理職がいる職場。
個性豊かな人間がいてとても面白い職場。
セクハラがまかり通っている職場。
生徒は楽だが、教師間が異様に陰気な対立がある職場。
何もかも楽だが、明らかに腐っている職場。
年寄りがすでに死に、若手が自己流自己満足を喫している職場。
地獄のような厳しい職場。
私はどの職場に行きたいか。
楽な職場はもういい、地獄でもいい、教育を放棄しない職場がいい。
しかし、言うは易し、行うは難しである。
やはり地獄は地獄。
地獄に行って、楽な職場に行くと、そこの教職員の言動に無性に腹が立ってくるときがある。
たぶん心の中で、「おまえら甘えるな」とつぶやいているんだろう。
まあいい、そんなことは早く忘れるべきだ。
過去は過去、今をしっかり生きよう。
よく職場で過去の栄光を唾をとばして周りに喋りまくる輩がいる。
そんな人ほど、今が弱い。
私は今に強い教師になろう。
産経新聞に次のような文面があったので紹介し私見を述べたい。
私も教育困難校にいたので分かるが下の文面通りであると思う。
早く国民がこの現状を知って、日本全体で解決しなければますます子供たちの未来はひどくなる。子供たちの未来が荒めば、ますます日本の未来社会は希望がなくなる。
子供たちの現状を、日々神経をすり減らし疲弊した教員だけに任せておいていいのだろうか。
解決策はあるのだろうか。
ある。
人間の可能性を信じることだ。
人間はただの肉の塊ではない。人間は可能性を秘めた強き存在。
底辺層の子供だからこそ、できることがあると私は信じる。
しかし、それだけ傷んだ底辺層の学校の生徒の可能性を引き出すには斬新的な考えとシステムが必要なはず。
一律に文科省の示す指導要領に沿った方針や一律な教員配置ではなく、(そこは文科省や教育委員会も理解していただかないといけないが)困難校に必要な人的、物的両面の教育環境の整備が必要なのだ。
下の講師の…
「この学校で1時間授業するより前の学校(進学校)で10日授業するほうが楽だ」
の話にあるように学校間格差は現実だ。
以前非常に楽な優秀な学校にいたことがある。
8クラス280名もの修学旅行生を引率するのに14名の教員が引率したが、はっきりいって必要ない。声の大きな教員4名ほどいれば十分と思われた。生徒が自主的に修学し、問題行動は取るに足らない小さな喧嘩やだらしなさだ。指導はその場で済む。
こんなことを言えば新聞沙汰になるかも知れぬが。
当時主任は、昼間からワインを楽しんでいた。その主任も今はとある小学校の校長先生である。
私も修学旅行の指導と言うより、旅行気分で、プレッシャーはなくとても楽しかった。
しかし、困難校の修学旅行引率は一転して戦場と化す。
修学旅行一週間前からどのクラスの担任もプレッシャーの下、課題を抱える生徒の準備や事前指導に時間を割く。
家庭訪問を繰り返し、親に指導内容を理解してらう。本人にはなんども髪の毛を黒に戻すよう、パーマを取るよう、服装を正しいものにするよう、ピアスを外すよう、タバコを持っていかぬよう、ひいたりついたりの深夜に及ぶ指導の毎日が続く。当然、土、日クラブ指導、教科指導も並行して進む。
そして修学旅行は地獄。以前荒れた生徒の暴力で救急車でおとなしい生徒が運ばれたこともあった。
帰ってからも指導で遅くまで家庭訪問、後日にも指導が残るという現実だった。
少し、現状に力を入れすぎた感があるが、本当のことだ。
だから、こんな学校には教員を特別支援並みに配置すべきなのだ。前から発信しているが、特別支援の教員の給与を一般校並みにして余剰金を困難校に回せばこの問題はすんなり解決できる。
私は断わっておくが困難校は好きだ。
今、わりと楽な学校にいるが、来年困難校に行きたいくらいだ。
理由は、上記のごとく、生徒に可能性があるからだ。以前の学校で一端を実感した。
【風】「教育困難校」知って
《現在の生徒たちは、70代の元教師の方が勤めていた時代、40代の父親が学校に行っていたころの生徒とは、まったく別の人類といえるほど変化しています》
先週の「風」では、教員の力不足を批判する声をいくつか紹介したが、これに対し、「現場より」と題した反論のファクスが寄せられた。
大阪府内の「教育困難校」に勤務しているという高校教師からである。
《授業に集中したり、苦手なことやしんどいことを我慢してやりとげることができない子供が多すぎます。教員としてどんな経験を積んでいてもまったく役に立たない。講師で進学校から来られた方が言いました。この学校で1時間授業するより前の学校で10日授業するほうが楽だと》
この教師は、学校が荒れる背景には家庭の教育力低下があるとしたうえで、《教育困難校で起こっていることを世間に広く知ってもらい、日本中の大人が協力して子供たちの教育、しつけに取り組まないとおそろしいことになる》と訴える。
先生に過度のストレスがかかり、学力向上どころではないという状況は、義務教育でもみられるようだ。小6の娘を持つ大阪市内の40代の母親からのメール。
《あるクラスの担任がストレスで登校できなくなったらしい。そのクラスの子供の顔ぶれを聞き、なるほどお気の毒にとすぐに状況を理解した。モンスターペアレントに育てられたモンスタースチューデントがぎょうさんいてる》
母親はさらに、《大学を出たての純粋培養の先生ではとても手に負えない。40代の社会経験豊富で親経験もある先生が必要》とし、《教師を目指す社会人経験者を一人残らずとるくらいの意気込みでなければ、学級崩壊には対応できない》と採用する側の意識改革を求めている。
冒頭の高校教師の手紙は、こう結ばれていた。
《教員仲間には親が教員だった者が多いです。しかし、自分の子を教員にしようとしている人は本当にいません。私も自分の子供を絶対に教員にはしたくない。それが現場です》
教員は人によって、また勤務地によって、極楽生活と地獄生活に分かれる。
世間さまにはあまり知られていないが、休みにして5倍以上の差がある。具体的には年間25日程度の休みの教員(部活で休日がほとんど取れない)と、140日(土、日、祝で100日程度、年休で平日20日、春夏冬の休みで30日)はとれる教員とがいる。
その差は教員の個性からくるものであるが、勤務地によっても差が出るのはあまり知られていない。
そして一番の原動力は何と言っても、教員の自宅研修制度だ
教員は勤務以外での研修が認められている。
例えば沖縄旅行でさえ、沖縄戦争跡地研究に置き換えられる。
この休みの量で年収900万近い教員もずいぶんいらっしゃる。うらやましーい
詳しくは学校にある自宅研修届を紹介したい。
しかし、最近この自宅研修届も管理職は審査を厳しくして受け取らなくなってきた。一般教員は管理職にとやかく言われるのが嫌で年休にする場合が多くなってきた。
しかし、それだけじゃない、症状がよく似た生徒が多いと思うのは私だけだろうか。
話は変わるが、私が中学や高校まで花粉症なんかなかった。
今はホントに生徒も苦労している。マスクをしている生徒増えてきた。 「先生、目が痛い」と訴える生徒も多い。
どうなっているんだ。 花粉症。LDなど。そして不登校の生徒も私が中学校の時はいなかった。しかし今は各クラスに1,2人いる。
どうなっているんだ。
だから、来年度より聾、盲、養護学校などがLD,ADHDなどもふくめて特別支援学校になる。
様々な支援が必要になってきた今日の教育。
底辺校とか困難校と呼ばれる学校は大変だと思う。 荒れている生徒に、さらに支援を必要とする生徒の出現。
不登校の生徒が一人いるだけでも、様々な支援が必要だ。
例えば、不登校の生徒が学校にこれないので、いわゆる別室登校をするよう呼びかける。そして教室には入らずどこか別の教室で指導をする。
授業に行かなければならないし、来ている不登校の生徒を指導をしなければならない。それが学年に2,3人同時に来たときは学年教師は回らない。
さらにこれが荒れた学校なら、教室から出る生徒や、その為に廊下で待機する教師も必要だから、教師はへとへとになって1日が終わる。
これが現在の学校の複雑なしんどさだ。まあもっと言えばさらに事務処理というのがまっている。
そして土、日はクラブ活動だ。
きっと教師も授業準備に時間を使いたいと思う。でもそれより生徒指導に時間が割かれるのが現実だ。
せめて、学習障害らしき生徒の支援教師を増やして欲しい。学習障害と認定されていなくてもほとんどそれに近い生徒は各クラス2,3人はいるような気がする。
動物園状態とまではいかなくてもそれに近い。
まあ、うちの学校だけが特別なのか…分からないが。