公立学校の真実
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施設の子の奨学金について書かれたブログを拾ってみた。下の2つがそうだ。
どちらも当然と思うことだが、この政治混乱のさなか、東北の災害復興もままならないのに施設の子らの奨学金なんて話題にも上らないのだろうこの国は。
だったら、なんとかまず民間でやらねばならないのではないか。
2つのブログより抜粋
タイガーマスク現象の影響か、匿名の寄付が続いている。土曜日に私宛に差出人のない封書が届いた。中にワープロで打った文書と5万円が入っていた。さらに某幼稚園で講演をしたらそれを聞いた保護者がメールで寄付を申し込んできた。匿名ではないが、関西のほうの方からお米が届いた。有難い限りである。それに今朝新聞を見たら最低基準が見直されるらしい。
一方で、高3の女児の大学進学について、多方面に支援を呼びかけていこう思っていた矢先、こんなことばを聞いた。「不景気の時代、普通の家庭だって進学を諦める子がいるのに、どうして施設の子を大学に進学させなくてはいけないの。家が大変で施設に入っていたのだから進学なんかより働かなくてはならないんじゃないの」と。こうした考え方は一般論として非常に根強いのかもしれない。これこそ劣等処遇の考え方なのだが。
私はこう思う。子どもたちがどんな環境に生まれ育ったかによって、自分の意志とは関係なしに進学を断念しなければならないとしたら、そんな社会であっていいのだろうか。貧困家庭に育つこと、施設で育つことは、決してその子の責任ではない。選択不能の環境のせいで、自身の夢をあきらめなくてはならないとしたら、格差社会はさらに顕著なものとなろう。そんな日本であることを容認していいのだろうか。
日本国憲法第13条に「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とある。出生や門地にかかわらず人は個人として尊重されなければならないし、誰にでも幸福を追求する権利があるのである。
私は、いくつかの大学で教鞭をとっているが、文章もろくに書けない学生、勉強する気の全くない学生に出くわすたびに、「こんな子を大学にやるために親は必死に働いて学費を納めているのか」と思ってしまう。高卒後の進学が当たり前となりつつある現代、「せめて大学までは」という親心なのであろう。
私には「せめて大学までは」という親心はない。大学で学ぶ意志も能力もない子の進学を支援しようとは思わない。しかし、夢をもち大学で学ぶことでその夢に近づくことができ、また学ぶだけの能力を有する子であるなら、さらには、そうすることで社会にとって有益な人材に育つことができるのであるなら、その進学を支援したいのである。
「貧困で大学に行けない子もいる」、本当にそうだろうか。大学に行かない理由が経済的なことであるなら、それは言い訳に過ぎない。私は高3の時に家計が破たんした。一つ上の姉が浪人中で、私の大学進学はどうなるのだろうと思ったが、進学しないという選択肢はなかった。結果的には、新聞奨学生となり新聞専売店に住み込んで学生生活を送る道を選択した。親から金銭的な支援を受けることなく4年間で無事大学を卒業した(ただし働いてばかりいたので失ったものも多いが)。言えることは、経済的な理由が進学できない理由にはならないということ。
私にもできたのだからと、施設の子どもたちに同様のことを求めるのかといえば、否である。なぜなら実子にそれを求めないからだ。私には大学1年、高校3年、中学3年の3人の子がいる。彼らが進学を望みまたそれに値する能力があるのなら、3人とも親が全面的に大学進学を支援したいと思っている。実子には大学を終えてからも様々な支援をしていかなくてはならないとも思っている。私は実子の保護者であると同時に、施設に入所する子の保護者でもある。実子に求めないものを施設の子には求めるという自己矛盾に耐えられそうにないし、私はそんな冷徹な人間にはなれそうにない。施設の子にしてやれることには限りがある。30歳になって支援を求められてもできないことはできない。でも大学を卒業するまでの支援ぐらいならしてやりたいと思う。
私とともに養徳園に入所した弟は脳外科医であるが、医学部で学ぶための費用は先代の施設長が全面的に支援した。稀有な能力を埋もれさせてはならないという思いだったのであろう。その後継者たる私はその意志を引き継ぎ、もっと幅広く進学を支援したいと思う。ただ、私は微力だから、多くの方々に助けてもらわなければならない。
自分ではどうすることもできないことで、夢を諦めなくてはならないとしたら、それはその子だけの問題では終わらない。先輩が夢を諦めていく姿をみた後輩は夢をもつことすらできなくなってしまうのだ。心は荒むばかりだ。大人は子どもに「夢をもて」というのに・・・。
施設の子を大学に進学させることは、世間にはびこる劣等処遇の思想との戦いでもあるのだと考えさせられた。タイガーマスク現象が広がる今、劣等処遇について考える契機になればと思う。だからこそ、この現象を一過性のものとして終わらせてはならないのだ。
今春、児童養護施設から大学に進学した女性(18)が、日本学生支援機構の奨学金を借りられずに困っているという。
保護者からの虐待により施設へ入った経緯があり、民法で定められている、「奨学金を借りるための親の同意」が得られないためだ。学費は慈善団体の支援でまかない、アルバイトと奨学金で生活費にあてる見込みだった。
こういうニュースを読むと、本当に、考えさせられる。かなりの数の外国人留学生に対して、日本は授業料はもちろん負担させず、教科書代と生活費に十分余裕のあるだけの国費を、返還義務を課さずして湯水のごとく注いでいるというのに。日本人への国からの救済策というのは、ないんだね。
私の学生時代、日本の国費を得る留学生たちは本当にリッチだった。(母国での家庭環境も豊かな人が多く、30を過ぎてなお、外遊がてらフラフラしていられるだけの余裕がある家の出身であることも)
中国や韓国、インドネシアや台湾からの留学生はとても勤勉な印象だった。しかし、お国柄があるのか、どこぞの国からの留学生たちは、毎晩、クラブ(踊りの方)通い。学内では、その夜デートに誘う女の子を探し歩いて、ナンパばかり繰り返していた。
私はそのうち一人に、3年に渡ってしつこく追い回された挙句、彼が日本からの奨学金を得ながら高価なアクセサリーを贈ろうとさえするのに頭にきて「あなたは日本へ勉強しに来たのか、それとも女の子のハンティングにきたのか?」と尋ねたことがある。
訛りの強い英語で、何か尋ねている風に男性器を示す隠語を繰り返し、何も知らない日本人女子学生にリピートさせては大喜びしているような、呆れるほど軽薄でバカな男だった。
大学やその関係施設に、国家キャリアの天下り先が幾つもあるために、このようなことが起こっていると思われる。外国人留学生の頭数が多いほど、彼らが納めるはずの授業料は、日本の税金から支払われ、大学側は潤うことになる。日本人の貧困層のための政策よりは、その内実の国民に見えにくい留学生らへ。また、外交や慈善、国際支援の観点に絡めれば、より一層、通しやすい。
マザーテレサは、言った。「自分の国で苦しんでいる人がいるのに他の国の人間を助けようとする人は、他人によく思われたいだけの偽善者である」と。
もっともな言葉であるが、外国人留学生への奨学金に関しては、私はこう答えたい。
「彼らが助けたいのは、自らの財布のみ。彼らにとって、苦しんでいるのが外国人であろうが日本人であろうがどちらでもよく、重要なのは金にするのにどちらが簡単であるかだから、偽善より悪く、もう救いがないのだ」と。
私の子どは今春中堅の私立大学を卒業して、公務員として勤務している。奨学金は240万借りており、返済は利子込みで300万になる。バカにならないが、経済的に安定された生活はとりあえず約束されている。
つまり、奨学金を借りてでも大学を卒業すれば、努力すればだれでも将来生きる道は開かれている。それは施設の子にも同様に…のはずだが、この国ではそうではないらしい。
政治家よあなたはなぜ政治家になったのだ。何のために生まれてきたのだ。思い出してほしい。この悲しい現実を見て、何とかするために政治家になったのではないのか。
まず、我々で出来ることを始めよう。そう決意した。