愛ある指導とは
  我々は生徒を叱る前に自己を見つめるという作業をすると、生徒をしかれなくなる時がある。口が止まるのだ。
例えば、「嘘をつくな」と生徒に叱る。その時、自問してみる。私は嘘をついたことはないのかと。私は、今も妻に嘘をついて隠し講座を持っているし、昔は、嘘で我が悪事をごまかし親や先生からの多くの鉄拳を避けてきた。

 人に嘘をつけても自分には嘘はつけないから、自分が嘘つけだと自分が一番よくわかっている。だから自問すれば答えはすぐ出る。私も生徒と同じ嘘つきだと。
 
 では、逆に嘘をついたことのない人は、生徒の嘘を見破り指導するのがとても上手いかといば、そうではない。嘘をついたことがあるから、生徒の嘘を見破ることが出来、急所を掴んで叱れるのだ。

 しかし、いくら急所を掴むことが出来たとしても、それだけでは、生徒は鋭く突かれるので怖いから言うことを聞くだけになる。ではどうするのか、愛である。「愛」、私どもにはあまりにも遠く、到底達する境地ではないがこれを目指して教師をしたいと思う。私はクリスチャンでも僧侶でもないが、イエスの言葉と親鸞の言葉には頭が下がる。愛があるからだ。紹介する。

 
 ヨハネによる福音書
 イエスはオリーブ山へ行かれた。
 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

親鸞の弟子唯円が「とてもじゃないけど殺人なんかできません」と親鸞に返答したのに対し、親鸞は、「業縁によって殺せないのであって、業縁が変われば殺すまいと頑張っても百人でも千人でも殺すことがあるだろう。」

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2010/10/04 11:41 | Comments(0) | TrackBack() | 教員の質

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