人権教育は大切にされるものの一つだ。
そう、小学生の時から人権教育は始まっている。
でも、最近の小中学生の人権意識は低い。唸るほど低い。
これも学校教育の歪かもしれない。この低さをどうすれば本来の人権意識をもった姿にとり戻せるのか。
逆に考えて人権人権と言って、生徒の人権を大切に大切にしすぎたんじゃないかと思う。
生徒を大切にしすぎるあまり
鍛えるということが抜けていると感じるのは私だけだろうか?
どうです教職に携わる人々よ。
人権、人権といわれている学校ほど人権が守られていない学校が実は多いのをご存じか?
うんうんとうなずかれる先生方も多いかもしれない。
平然としたいじめ、暴力。教師の目の前で行われる生徒同士の人権侵害。
分かっていてもこちらに力がないから弱いものをかばい、いじめている側を毅然とした態度で諭せない。
.
.
駆け引きがあるのかもしれない。
今、いじめられる側をかばったら、いじめる側を敵に回す。だから、適度に注意を促す程度にして、徹底的にやるのはもっとはっきりとした事実をつかんでからと待つ。
徹底的にいじめる側を指導するのは、ちょっとしたいじめを見たときが一番いいのかもしれない。
いじめが小さい芽の時だ。
小さい時しっかり指導すると、「先生はこんな小さないじめでも許さないのか」と子供たちは思う。
しかし、実は、デメリットもある。子供たちから見れば、「なんでこんな小さなことでごちゃごちゃおこら れなあかんねん」と拗ねが始まる。
最近の教師はこの子供の“拗ね”という武器に弱い。なぜだろう。
拗ねると、家へ帰って親に「あの先生アカンわ」、と担任の先生からいかに理解してもらえていないかを愚痴る。
今はそれに母親が同調する。
あの先生は「公平な立場でものを言ってないらしい」
また、こんな場合もある。
いじめてても、「冗談やん先生、冗談でやってたんやん!」と子供たちは逃げまくる。教師にも親にもそう言う。そしてやられた方も「そうだ」と言う。こうなってくると…
「子供のトラブルにいちいち大人が入りすぎるからいじめが起きるんや!」と教師が次第に悪者に変わっていく。
これで教師の立場は弱きへと傾く。コレを繰り返すと、「私たちばかり怒られる」と拗ねから今度は数人で教師への攻撃が露骨に始まる。親も加勢するときもある。
「うちの子供の話を信じてくれないんですか!」
学級破壊、崩壊の初期ともいえる。これが怖いのだ。
このデメリットが大きいので、教師は少々のことを見て見ぬふりへと段階を踏む。
教師をかばえば、指導のチャンスをじっと見ているのだ。
ここで次の指導のチャンスを見事に捕らえることができればいじめも止まる場合がある。
見逃せば、教室はいじめ自由の国へと変わっていく。
しかしまだ次の段階でもチャンスはある。
いじめ自由の国になれば、もうはっきりといじめがあるわけだから、ここで事実をつかみしっかりと指導する。
ただこの段階では保護者から「なんでこんなになるまで先生はほっておいたのですか?」と厳し目で見られ、当然、同じように同僚、管理職からも「指導できない教師」と見られがち。大変なプレッシャ-を受けて日々を過ごさねば成らない。
でもいずれにしても、どの段階でも必ず好転のチャンスはある。最後の悲惨な時を見るよりましかもしれない。
私も何度も冷や汗をかいた。